昭和三十年(一九五五)を境にして労働組合運動は、それ以降の日本経済の高度成長に対応するかのように「春闘」を年間闘争スケジュールにとりいれた。
【春闘大衆化めざす「地域共闘」】 港区地域も、その埒外でなかったのはもちろん、むしろ春闘をして大衆化し、かつ定着させるため次の二つの面での特徴をもってはじめられた。その一つは、地域共闘の強化であった。それは地域共闘の推進者としての東京地評や港区労協の指導体制の確立と、これらの機関による争議団の共闘・支援の強化によってもたらされた。
たとえば、三十一年九月七・八日に芝浦会館で開かれた東京地評の第六回大会で確認されているように、それまで争議といえば総評中心だったが、地評としても独自の争議指導体制を組むことの可能性が生じたのである。これは、その前年の三十年八月十八日、東京地評の第五回大会で、①官公労と民間労組との共闘、②争議支援対策、③地域共闘組織の確立、④臨時工・臨時職員対策などとして打ちだしたものが、しだいに具体化していった結果でもあったろう。とくに地域共闘組織としては、東京を中部(中央・千代田)、東部(江東・江戸川・墨田・葛飾・台東・荒川・足立)、西部(新宿・杉並・中野・世田谷・渋谷)、南部(港・品川・大田・目黒)、北部(北・板橋・練馬・豊島・文京)および三多摩の六ブロック共闘体制の方針を決めたのも、この三十年大会であった。
港区でも、この共闘体制に即応し南部ブロックの一角として港区労協自体を強化する方向づけを行なった。たとえば、昭和三十一年の池貝鉄工三田工場の組合活動抑制と工場移転反対闘争、翌三十二年から三十三年にかけての暴力団介入をともなった菅沼製作所争議と萱場工場争議、同三十七年のオイル・ポンプ社争議などを中核として、区労協による地域共闘を、徐々に活発化していった。とくに、オイル・ポンプ争議では、区内でも中小企業の多い白金地区のせいもあって、周辺に対する影響力にもかなりのものがあった。
また、同三十二年の安全自動車芝浦工場と目黒の富士製作のように、相互の職場交流と助け合いが行なわれるなど、南部ブロックとしての共闘態勢も現実的なものへと歩みはじめたのである。昭和三十二~三年の〝なべ底不況〟の影響もあったのと同時に、二十五~六年以降三十二年ごろまでは、雇用の拡大は臨時工や社外工、下請中小企業労働者などであり、大企業の本工はほとんど横ばい状態だった。したがって不況のしわよせは、もっぱら中小企業労働者などの下層へ押しつけられ、それが中小企業争議頻発の背景でもあった。
【国鉄にも職場闘争が発展】 いま一つの側面は、国鉄労働組合などのような大組織のなかで、昭和二十八年前後からしきりに喧伝されだしていた「職場闘争」が昭和三十二年ごろから、ようやく本格化し、春闘に下部の労働者が積極的に参加する結果をもたらしたことである。たとえば、昭和三十二年の品川駅構内への警察力介入を抗議集会をもって拒むなどの職場闘争が展開されたのもその一つである(『国労東京地本20年史』六六四頁など)。