(一〇) 春闘大衆化を背景に進められた「安保闘争」

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 春闘の大衆化を直接背景にもち、同時にそのもっとも高揚した局面ともいえるのが、昭和三十五年(一九六〇)の安保闘争であった。港区では、さらに原水禁・砂川闘争などによって進められてきた地域共闘が、警職法反対でいっそう具体的かつ組織的なものとなり、「安保では別段の指令を出さなくても港区労協の旗をもって行けば、そこに区内の労働者や区民が集まってきて、容易にデモ隊が組めた」(元港区議渡辺勇氏談)というほどになっていた。
【品川駅構内の出庫阻止戦術】 港区における安保闘争そのものの過程での盛り上がりは、六月四日と同二十二日の品川駅構内で出現した状況だったといってよい。安保という政治と、春闘という経済の二つの命題を切り離そうとして、政府がかなり譲歩した賃上げ回答を出したため、総評の幹事会でさえ、一方に三井・三池争議をかかえながらも、安保の闘いもこれで終息するものと誤って判断したなかで、国鉄労働者は六月四日ストライキを整然と行なったのである。とりわけ、東京都内における焦点は品川駅の出庫阻止闘争に集中していた。
 当日の模様を同月六日の『国鉄新聞』にみてみよう。
 
   「田町電車区は山手線品川駅と田町駅前の品川寄りにある。東海道、横須賀、湘南の各線を受けもち、当然〝こだま〟〝つばめ〟など国鉄当局で自慢の特急列車も含まれる。当日夕刻までに大半の乗務員が組合の掌握下に入り、当局はサジを投げたのか駅構内には公安官のすがたも見えない。午後一一時ごろから品川駅前広場には全学連反主流派、支援労組のなかまたち約一〇〇〇人が陣どり、徹宵でこの闘争を見まもっている。……中略……どんよりと曇ってはいたが、東の空がうす明るくなりだした。午前四時、初電発車の時間は迫った。品川駅一番ホームはずれの山手線電車の前に支援労組員もまじえ固い表情でピケ隊もいささか拍子抜けの表情。この日の見ものはマスコミの大動員ぶりだった。構内わきにテレビの中継無線カーを乗入れ、ある社は全員鉄カブトをかぶり、ものものしい姿でカメラの放列をしいて待っていたマスコミの期待にそう場面もなく静かに実力行使へ入っていった。
   電車区の車庫前の〝こだま〟でもピケ隊はゆだんなく見張りをしていた。出庫にとりかかる予定時刻の六時前後、公安官二人が構内に入ってきたが、たちまちピケ隊にとり囲まれ、つまみ出されんばかりの勢いに、しきりに弁解をしながら退散。〝こだま〟もついに出庫しなかった。……中略……
   こうして午前七時、実力行使解除を迎え、制服姿の乗務員約一〇〇人がピケ隊に囲まれ拍手をあびながら構内に姿をあらわした。電車区の空地で部内のピケ隊と解散大会に入ったが、黒ジャンパー姿の若い篠原分会長はマイクの前に立って『日本の李承晩を追いだすためには、どうしてもやらなければならなかった労働者の任務を、いま整然と果たすことができました。みなさん、どうもありがとうございました。』と乗務員に心から感謝のあいさつをしたが、しばし拍手は鳴りやまなかった。駅前では七時すぎから乗客大会がはじまっていた。林立する赤旗とプラカード、支援労組員と一般乗客が国労宣伝カーをとりまき、熱心にマイクに耳を傾けていた。社・共両議員らのあいさつにつづき日高六郎東大教授(筆者注・塩田庄兵衛都立大教授も出席していて日高教授に続いてあいさつ)も立って『国鉄労働者は私たちの期待にこたえてくれました。民衆が政治の主導権をにぎることもそんなに遠くないことを示してくれました』(筆者注・このあいさつ要旨は塩田教授の発言内容と思われる)とあいさつし、折から駅前にやってきた乗務員たちにはアラシのような拍手がおくられ、国鉄労働者と一般民衆が手を結んで進む姿が見られた。」(『国鉄新聞』一九六〇年六月六日付)
 
【新安保抗議に結びついて国鉄スト】 同月二十二日、さらに品川駅には、新安保条約の自然承認に抗議する国鉄ストを支持して、連帯する労組や学生たちが前夜からつめかけ、終電のころには約四五〇〇人の人びとが、ホームから連絡通路に至るまでぎっしりと座りこんだ。
 ストの担い手は品川車掌区・品川駅・東京機関区・品川電車区の四職場、いってみればいずれも港区に拠点をおく国鉄労働者であった、明くる朝の七時半すぎ、駅前の支援労働者による大会では、岸信介首相退陣の報せがはいり歓声がこだまして、拍手とどよめきで湧きかえった。