(一一) 田町電車区の「ハダカ事件」

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【強化された使用者側の攻勢】 安保闘争の高揚以降、春闘は賃上げ率・額ともにしだいに大きくなり、参加人員も増加してはいったが資本側の反撃も強力になった。労組運動の中心だった国労にたいして当局では、労働組合法第三六条による協定(いわゆる「三六協定」で、残業の場合は組合側と協議してその承認をうる)を昭和三十六年三月十日付で破棄した。
 昭和三十八年七月二日夕刻、ラッシュアワーの品川駅ホームでパンツ一枚ではだしのままの国鉄労働者を鉄道公安官が手錠をかけて連行した「田町ハダカ事件」が起こった。連行された四人は田町電車区の組合員で、入浴時間をめぐって職場の管理者が従来の組合側との協定を無視して生じたいざこざから逮捕されたものだった(『国労東京地本20年史』八八三頁)。これは職場における当局側の組合に対する圧力行使の端的な現われだった。
 
 そして、昭和三十八年には、三〇年代の平和運動の軸をなした原水爆禁止運動がソ連の核実験への態度をめぐり、総評・社会党系と共産党系に分裂し、港区でも労働運動統一のための重要な布石であった原水協から共産党系の人びとが離脱してしまった。以来、原水協が社会党だけで運営されたのも港区の一つの特徴ともなった。
 また、翌三十九年の春闘では、四・一七ストに共産党がにわかに反対の立場に回ったため、労働組合の内部に混乱を生じさせ、のちに共産党の自己批判があったものの、この混乱が労組運動全体としては、一歩後退を余儀なくされた事態であったのは否定できない。
 その後、いわゆる「マル生運動」への反撃で、ようやくにして労組側も守勢から攻勢へ転じたが、昭和四十四年(一九六九)にドル・ショックによって高度経済成長に終止符が打たれ、さらに同四十九年の石油ショックのあとからは「国民春闘」の構想が出され、それを追求しながらも実質賃金の維持さえむずかしい状態になり、一部では春闘終焉(えん)の声も聞かれるようになった。
【国民春闘下ソフトウェア争議の勝利】 しかし、そうした情勢のなかにあって、昭和四十四年十一月十日の芝明舟町一八(現 虎ノ門二丁目三番)十一森ビルにあった日本最大のソフトウェアの専業会社で国策会社だった日本ソフトウェアの労働組合のように、会社の計画倒産にたいして、二四〇名から二四名に、最後には一九名にまで追いこまれながら、ついに昭和五十年七月に雇用保障を獲得するなどの注目すべき成果をあげた積極・果敢な闘争も行なわれている(『怒りもてコンピュートピアの扉を叩け』全国金属ソフトウェア支部編)。これには港区労協をはじめ中野区労協および総評・全国金属労組などの強い支援・協力があったとはいえ、コンピューターという新しい部門にも組合運動が浸透して大きく根を張ろうとしているのも歴史の流れといえる。とくに、戦後、労働組合運動の地域的中心をなした港区地域にあってもその例外ではありえないであろう。