生活保護の実態

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【戦後の混乱と失業】 戦後社会の混乱のなかで失業者は一三〇〇万人以上に達したといわれる。この数字は、当時の労働力人口の三〇~四〇%にあたるという膨大なものである。産業は壊滅状態にあり、新しい就職口はなかなか見つからなかった。唯一の活況を呈していたのはヤミ市だったが、ヤミ・ブローカーとしてたくましく戦後社会を渡り歩いた人々のなかには、生死をかけて帰国した復員兵や海外引揚者が多かったといわれる。
【生活保護法の制定】 失業とそれにともなう生活の困窮は、当時の最大の社会問題であった。昭和二十年(一九四五)、政府は臨時的措置として「生活困窮者援護要綱」を決定し、失業者をも含めた生活困窮者の救済に乗りだした。次いで、翌二十一年九月には生活保護法(旧法)が制定され、さらに二十五年には改正された新生活保護法(現行法)の制定、施行をみている。
 生活保護法は、「すべて国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」という憲法二五条の理念にもとづいており、生活困窮者は自立して生活できるようになるまで「健康で文化的な最低限度の生活」を保障されることになった。
 保護の種類は次の七種であるが、救貧的なものばかりでなく、積極的な防貧・自立助長のための施策も盛りこまれている。
 
 ①生活扶助(食費、電気水道料その他日常生活に必要な費用)、②住宅扶助(家賃・間代・住宅の修理費、地代等)、③教育扶助(義務教育を対象)、④医療扶助(病気を治す費用)、⑤出産扶助(出産の費用)、⑥生業扶助(技術を身につけたり仕事を始めるための費用)、⑦葬祭扶助(葬儀を行うための費用)。
 
 保護の状況についは、敗戦直後の実態は、資料が不備のために不明の点が多いが、現在までの変化の概要を次にみよう。
【生活保護の変化の概要】 保護世帯の保護人員は、戦後の混乱期を除いて昭和二十年代は増加傾向を示した。昭和三十年を頂点として以後は下降の一途をたどり、石油ショックに見舞われた昭和四十八年ごろから横ばい傾向となっている。ただ、本区の人口が昭和三十年以来減少していることを考えると、保護率は微増傾向をたどっていることになる。こうした変化は本区ほど顕著でないにしても、全国的に同じような傾向を示しており、日本の社会情勢が一般的に昭和二十年代は、戦後の混乱状態からぬけきれなかったこと、昭和三十年代に入って経済の高度成長政策のもとで経済的発展がはじまったことなどを背景としていると考えられる。
 区内の地域別の状況をみると、住宅密集地域、都営二種住宅のある地域、簡易宿泊所のある地域、東京港に面した港湾労働者が多く居住する地域に保護受給者が多くなっている。
【本区の保護の実態】 本区は他区に比べても、全国的な比較の面でも、保護率(人口一〇〇〇人にたいする率)は低いほうになっている。たとえば、昭和三十五年では港区九・九人にたいし東京都は一五・七人、全国は一七七人となっている。このころ港区は千代田区に次いで都内では二番目に低い保護率であった。
 

表3 保護人員と保護率の変化(月平均)

保護世帯数
    人
保護人員
   人
保護率
港 区東京都全 国
昭和35
  40
  50
1298
791
838
2549
1342
1292
9.9
5.7
6.2
15.7
11.6
10.5
17.7
16.3
12.1

 
 ところが最近の昭和五十二年は、低いほうから千代田区、杉並区、中央区、文京区、世田谷区に次いで六番目に港区が続いているが、保護率では東京都が一〇・六人、全国では一二・一人であるのにたいし、港区では六・五人となっている。本区は他区に比べていわば戦後の復興速度も早く、ことに商業地域、オフィス街として日本の産業経済の中心地の一部を占めており、その復興発展の影響を逸早くうける条件にあったからであろう。
 生活保護をうけているのは、どのような人たちであるかをみると、この三〇年間の変化はかなり大きいといわなければならない。たとえば、保護世帯のうち「働いている人のいる世帯」はこの三〇年間にずっと減っており、逆に「働いている人のいない世帯」がずっと増えてきている。戦後の混乱期の膨大な失業者群が、社会の安定とともに減少していったためである。それにしたがって、昭和三十年ごろからは働けない人たち、つまり老人や病人、心身障害者、母子家庭などが生活保護者の中心を占めるようになった。
 保護開始の原因をみると、世帯主または世帯員の傷病によるものがもっとも多く五〇%以上もあり、病気→生活困窮→生活保護受給のタイプが多いのがわかる。なかでも近年は、従来の結核にかわって精神病による入院患者が増えて、入院患者全体の半分近くを占めている。都会生活の緊張と不安が精神病患者増大の原因であろうと考えると、今後とも精神病の要因を除去するよう努力しなくてはならない。
【低所得層へも援助の手】 こうした生活保護世帯とともに、生活保護をうけるほどではない低所得世帯の経済保護も必要となってくる。港区では、生活保護世帯と低所得世帯を含めて、区独自の援護を行なっている。ことに港区の一般世帯の生活水準は都内でも比較的高く、その分だけ生活保護世帯や低所得世帯との格差が大きくなるため、多少ともこれを補う目的で行なわれているもので、五十一年度は表4のようなものである。
 

表4 昭和51年法外援護一覧

種   別対 象 数品 目 ・ 金 額









学童・生徒に学童服(通学用服)(小学校1年中学校1年を除く)および運動衣の購入費用支給

小学生77名121名7,700円
2,750円
中学生44名


小学生89名143名
中学生54名
夏休み中の学童・生徒に栄養補給品支給
140名カルピス(オレンジ,白)
ピーナッツバター
チョコレートクリーム
蜂蜜
夏・冬・春季に居宅世帯入院者に見舞品支給
区分居宅世帯入院者区分居宅世帯入院者
508304調味料セットタオルケット
515289  〃スリッパ
バスタオル詰合
259302乳製品詰合ねまき
夏・冬季に居宅世帯見舞金支給
498世帯一世帯2,000円
507世帯一世帯2,000円
出産祝品1名ベビー用品詰合
低の
所援
得護
 者
夏・冬季に見舞品の支給
362世帯
360世帯
調味料セット
   〃





心身障害者に見舞品支給808名シーツ・カットタオル詰合
原爆被爆者見舞品支給198名乳製品詰合
視力障害者に白杖支給190名4段折りたたみ白杖