都立民生病院

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【民生病院医療保護】 生活保護法と関連し、その医療保護施設として、とくに要保護者だけを対象とするのが都立民生病院である。民生病院は、三田一丁目四番地にある済生会中央病院構内にあり、その運営は済生会中央病院が都から委託され運営している。
 民生病院設立の経過は、初代の小山武夫院長(元済生会中央病院長・元都衛生局長)によると、次のようなものである。
 
   昭和二十年代の後半になっても、その当時の都民の一般の生活は極めて窮乏をつげていたことは記憶に新たなところである。衣食をさがし、住を求める人達の中に交じって、浮浪者や行路病者が街路到るところに見かけられたのも、そのころのことである。これらの病者の保護収容には東京都当局もほとほと困却した挙げ句、衛生局に対して都立病院への収容方協力の申入れが再三あったのである。しかし、都立病院は一般都民のための施設であってこの人達を収容するとなると、種々厄介な問題が惹起することが予想されるので、遺憾ながらこの申し出を拒絶せざるを得なかった次第であるが、衛生局としても公衆衛生や医療の立場から、この重大な社会問題を所管外事項として放置することができないので、協議の結果、これが解決には特殊な医療保護施設の設置が最善の方法であろうことを知事と民生局長に勧告した。(『東京都済生会中央病院五十年史』一二一頁)
 
 その結果、済生会中央病院の敷地内に工費一億円をかけて、昭和二十七年十一月に都立民生病院が完成した。診療設備については、いっさいを済生会中央病院に委託し、外来患者も中央病院で扱うことにし、民生病院は入院用べッドの整備に重点がおかれたのである。生活保護法にもとづく医療保護施設としては、当民生病院の設立が嚆矢といわれる。
【東京都民生病院条例】 東京都立民生病院条例によれば、対象者は浮浪者、浮浪児、行路病人を第一とし、各種保護施設の収容者その他の生活困窮者等であるが、救急車で運びこまれるものが多かった。当時都内の浮浪者は四七〇〇人ともいわれたが、おもに上野、新宿、新橋の地下道をねぐらとするバタ屋、モク拾い、ルンペンであった。全身垢と埃(ほこり)で真っ黒になり、頭髪は長く伸び、男女の区別も身体の前後の区別もつかないほどであったという。独特の体臭をさせ、衣類はぼろぼろで、なかにはむしろ布を巻きつけただけの者もあった。ときには白ゴマをちりばめたように、シラミだらけの人も珍しくなかったという。このような人たちに看護婦をはじめ、治療介護にあたる人たちは、当初は文字どおり肝をつぶし茫然とした。このため看護婦のなかには退職者さえ出たほどだったという。
 入院後も、入院前が放縦な生活であっただけに、病院の規則的な生活になじめず、逃亡する者も少なくなかった。月々の生活保護の扶助金二三〇〇円(昭和二十八年当時)もほとんど酒に費やしてしまうものが多く、酒が入ると喧嘩がはじまるのが常であった。他方、入院中は三食はもちろんのこと、日用品も支給されて生活が保障されるため、退院をなんとか引き延ばそうとして仮病などの居座り戦術をとる者も出てきた。彼らの間では、当病院は「民生ホテル」「民生天国」とも呼ばれ、伝え聞いて遠くから来院する者もあった。
 開設当初の半年間の入院患者は、二五〇名ほどであったが、そのうち港区在住の者は四五名であった。
 患者のうち多いのは、当初は結核が圧倒的であったが年次を経るにしたがって、一般の疾病の変化と同じく、脳出血が多くなってきている。特徴的な病気としては、売血による貧血とか、ヒロポン患者の不衛生な注射器から感染したマラリア患者(昭和二十九年ごろ八三例)、冬期の火傷と凍傷患者などである。治癒して退院しても、またもとの不健康な生活にもどらざるをえない人が大部分のため、再入院となる数も決して少なくなかった。こうした状況を改善するためにも、民生病院とともに関連施設として退院後の社会復帰のための施設の必要性が痛感された。