(2) 浮浪児と養護施設

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【児童福祉法と浮浪児の収容】 戦争で親を失い、また、空襲で家を焼かれて肉親と離ればなれになった子どもたちは、敗戦の混乱のなかで浮浪児となって上野駅の地下道などに住みついた。港区でも新橋の繁華街や芝浦地帯は浮浪児や大人の浮浪者の根城となった。浮浪児たちのなかには親のない子ばかりでなく、食糧難・生活難に喘ぐ親に虐待されたり、置き去りにされた子どもたちも多数混じっていた。彼らは、大人のヤミ屋の手伝いをしたり、モク拾いをして再生煙草をつくって売ったり、靴磨き、新聞立ち売り、国鉄の乗車券売りなどをして生きていた。
 行政当局は、ともすれば犯罪の巣になりがちなこれらの浮浪児や浮浪者の〝狩り込み〟を行ない、トラックに乗せて収容施設に入れた。しかし、収容先の施設も世間と同じく食糧難であり、娯楽設備どころか衣服や生活必需品にも事欠いていたし、また、閉鎖的な施設を嫌って逃亡が相次いだ。
 このように行政当局が応急的な収容施設を設けていた反面で、民間の社会事業でも世相に対応して浮浪児の収容に努力を続けた施設もいくつかあった。これらの施設は、昭和二十二年に制定された児童福祉法では、満三歳から一八歳までの親が養育できない子どもを養護する施設とされ、三歳未満の子どもを収容するものは乳児院とされた。港区でも、このような施設として、次のようなものがあったが、現在では廃絶したり郊外へ移転したりしている。