東京都済生会中央病院付属乳児院

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【済生会の乳児救済】 前述の都立民生病院と同じく、三田一丁目四番に所在し、東京都済生会中央病院に付属する乳児院である。その創設は、関東大震災直後に遡り、今次大戦の社会的混乱期には多数の捨て子の乳幼児を収容して、大きな役割を果たした。
 その本体である済生会は、恩賜財団として明治四十四年(一九一一)に設立され、その中央病院は大正五年五月に、当時の芝赤羽橋畔に旧久留米藩主有馬氏の広大な上屋敷の一部を割き、工費一九万円をかけて建設されたものである。明治維新後に一時海軍工廠などが置かれていた土地柄で三万二八六五平方メートル(一万九五五坪)の敷地を擁していた。
 関東大震災では、木造の病院施設は破壊・焼失したが、震災復興の救護活動のなかで、路頭に迷う妊婦・乳児を救済するために産院・乳児院が急設されたのが、現在の付属乳児院のはじまりである。昭和二十年五月二十五日には病院とともに空襲をうけ、病院は焼失したが、鉄筋コンクリート造りの乳児院は被害を免れた。
 戦後、東京都内では捨て子が増えて、ほとんど毎日のように新聞紙上を賑わした。そこで乳児院では、玄関入口の廊下に「捨て子台」を置いたが、それがまた新聞で報道されると乳児院への捨て子が増え、たちまち収容しきれぬ状態となり、定員を三五名から七五名に増員して収容に努めた。
 収容乳児が増える一方で、食糧をはじめ物資不足が著しく、ミルクはララ救援物資で辛うじてまかない、衣類や寝具・べッドの不足には看護婦や保母たちの並々ならぬ苦心が払われた。
 こうした戦後の混乱期、養育できない親に代わって、多数の乳児を育くんできた乳児院にも、社会が落ち着くにしたがって、捨て子などは激減して、入院理由は親の病気によるものが次第に増加してきた。ともあれ、昭和三十二年には、定員を七五名から、もとの三五名に減少させたが、このことは児童福祉法による子どもの委託費では実際の経費を賄いきれないため乳児院が中央病院の大きな負担となっているのを回避しようという窮余の一策でもあった。