恩賜財団慶福育児会

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【慶福育児会の乳児保育】 明治二十四年(一八九一)一月、小児科の権威・東京帝国大学医学部教授弘田長博士の提唱により、帝国大学病院の一角で貧困家庭の病児の救済・診療がはじめられた。運営のために有栖川宮妃を総裁に婦人共立育児会が設けられた。東京・横浜の名流婦人が中心になって一般家庭婦人に呼びかけ、各家庭の紙屑、ぼろ布、空かんなどを売った代金を会費として集め、運営費とした。その他一般からの物品の寄付、皇室の御下賜金、内務省や東京市からの助成金、大震災後は慶福会など諸団体からの援助も相次いだ。
 こんにちのように民生児童委員も福祉事務所もなく、子どもたちは各地の婦人会員の情報にもとづいて集められた。
 大正十年(一九二一)四月、創立満三〇年を契機として乳児保育を始めることとなった。この間、明治四十三年に大学病院から当時の麹町区飯田町に移転、さらに大正二年に廃校となった私立小学校を買って九段下に移転した。大正十二年に関東大震災で類焼したため手狭となり、九段下から現在地(南麻布五丁目一番二〇号)に移転してきた。ここは当時官有地で公益事業として無償貸付けをうけたものである。震災復興のための御下賜金や公私の助成金で、荒涼たる広尾が谷の一角に新院舎が完成した。
 昭和二十八年、恩賜財団慶福会と合併し、恩賜財団慶福育児会となり、四十七年には目黒乳児院とも合併している。現在収容定員一一〇名である。