東新橋一・二丁目

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 全域がほぼ近世前期の造成地であり、町域東辺の国道一五号線に面する一丁目一~四番、二丁目一・二・五~七・一〇~一二番は慶長十一年(一六〇六)以降町屋となったが、その沿革については「新橋」の項で述べているものに同じである。
【御鷹場】 近世初頭は、全体に潮入りの葦沼とおぼしく、北端に住家のできた有様は寛永図(寛永九年・一六二三)にみることができ、南は潮入りを残した堀をへだてて龍野藩脇坂邸(はじめ下屋敷、のち上屋敷となり幕末まで続いた)があり、その南部は御鷹場とあって、将軍の鷹狩り用地だった。
【汐留】 東北端は、今の中央区へ続いており、その内側(北側)に北からきた三十間堀が西方へ曲がって外堀(のちの汐留川、新橋川、現高速道路の下)へつながっていて、外海とは隔てられている。この地形の状況から、海潮が堰止められているという意味の潮止めが「汐留」の文字に書かれたと推定されている。塩問屋があったから、というのは海へ通ずるように橋をかけた正保年間(一六四四~)ころ以後に生じた語呂による臆測のようである。
【会仙川】 脇坂邸におくれてその南に仙台藩伊達邸ができ、さらにその南には保科邸(のち会津藩)ができた。伊達・保科両邸の間には、東海道往還にかかっていた源助町にちなむ源助橋から流れてきた桜川の末流があるが、両邸の頭文字をとって会仙川といい、暗渠化した今日でもそう呼んでいる。近世にすでに大下水とも呼ばれており、下水道の役割をしていた。
 町域南辺の新銭座町(二丁目一三番)は、寛永十三年(一六三六、別に十五年説もある)に銭貨鋳造所が新設されて、恐らく延宝(一六七二~)のころ廃されたのち、貞享三年(一六八六)に幕府の能役者と碁所に支給され町屋敷として彼らの収入源としたのが町名の起こりであった。新銭座は付近の武家屋敷を含め地名として用いられている。深川・浅草のそれと区別するため芝を冠称した。
【鉄道起点としての新橋駅】 この状況は、明治維新後まで続き、明治五年(一八七二)に三邸の武家地に会仙川を境として汐留町一・二丁目を設定した。同年、日本の鉄道起点とされる新橋駅が、この町域全体を使って設置された。東京ひいては日本の正面玄関となったわけである。
 この駅は、山の手線高架鉄道開通で大正三年(一九一四)に東京駅にその機能を譲り、貨物専用駅となって駅名も汐留駅と改まった。関東大震災には、全域が被害を受け、その後の区画整理で昭和七年(一九三二)に国道ぞいは新橋一~七丁目となり、汐留町一・二丁目は新銭座町を含めて、単に汐留となった。
 運輸関係の事業所が多かったのは、戦前戦後を通じて変わらないが、国道ぞいのビル化が目立ち、貨物の東京の玄関だった汐留駅の貨物輸送に果たす役割も運輸手段の変化があって微妙に変わってきた。