新橋一~六丁目

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 全域が沖積された低平地にあり、この町域の北方が近世初頭までは、日比谷入江であった。そしてこの土地が溜池の谷から流れ出る川(桜川あるいは赤坂川、外堀化してからは汐留川、新橋川と呼ぶ)の沖積地であることにはまちがいないが、同じ低地でも日本橋付近は伝承的には古代から、少なくとも中世には陸化していたので、この付近が陸化した時期もいちがいには推定できない。
【烏森】 二丁目九番にある烏森神社は平将門の乱(天慶二年・九三九)のさい、その討伐に成功した藤原秀郷の勧請したところといわれ、地質的には銀座方向へつながっていた形跡がある。埋没谷の地形は、現在の海岸一丁目から、新橋西部、西新橋の町界へんを北上していた時代があるように読みとれるため、この地はその西方南方の沖積地とは異なっていたかもしれない。
 この烏森稲荷は家康の江戸入り直前に、兵火にかかって焼失し、幕府がその跡をすべて武家屋敷に仕切ったところ、古田、稲葉、杉原などの大名がつぎつぎ廃絶する不祥事が続き、その原因を調べた結果、屋敷の間を割いて稲荷社を再興したといういわくがあった。
 烏森とは元来が地名で、烏の森、烏丸、烏村などといって、烏の多くすむうっそうたる森があったと伝承している。
 慶長七年(一六〇二)の作といわれる古地図には、現在の港区の北端までしか描かれていないから、それ以前には見るものがなかったのであろうが、その年には現一丁目一四・一五番に当たる地域に霞が関付近から兼房町ほかの桜田の諸町が移されてきた。これが紀年の判明する町域内最初の町屋である。
【新橋の由来】 本芝から北方へ東海道を延ばし日本橋を全国里程の起点としたのは、その二年後の慶長九年(一六〇四)であり、おそらく新橋(一丁目五・六番先)を創架したのは、この幹線道路の通過のためであろう。それ以後ではありえない。新橋とはいいながら、江戸市街ではもっとも古い橋に属する。ただし、新しい橋というからには、それ以前に比較される橋がより上流にあって、それに代わるような新しい橋という意味があったに違いない(それは難波橋か土橋であったかもしれない)。日本橋でさえその前年に架けたので、ここをとくに新橋というのにはそれだけの理由があったと考えるべきであろう。
【日比谷町】 この新橋の南方、東海道の両側に日比谷町が日比谷門内から移転してきたのは、江戸城日比谷門築成のためで、慶長十一年(一六〇六)のことであったが、移転先がこの地であったのは、新街道ぞいの利を選んだものだろう。町自身の移転は、慶長年間としか伝えられていないが、この集落の産土神であった日比谷稲荷の移転が慶長十一年としている。
【日陰町】 その南方に続いて源助町、露月町(ろう月町とも)、芝井町、宇田川町ができたのも、それにひき続く時代であり、また、兼房町のそば(一丁目町域)には葺手町、なべ町が存在したことも知られている。町名から伝承あるいは推察されるのは、里老の名もしくは工人居住地にもとづく町であったということである。これらの町屋以外の全域は武家屋敷であって、それ以後幕末にいたるまでに町況を変えたのは、現一丁目と二丁目の東北部だけであった。なべ町といったところが幸町(現一丁目一二~一三番)となったのは、寛文(一六六一~一六七三)ごろで、同四年には芝口二丁目から宇田川町までの町屋西側に道路を新設し、西北向きの片側町で日陰町の俗称ができた。はじめ新道といい江戸土産や古着店などで有名な繁華街となった。日比谷一丁目は、その後幕府用地となり、元禄四年(一六九一)には葺手町は西久保へ、幸町は北八丁堀に移されて、その跡地は火消役宅と薬草植付所の拝借地となった。
 また、のちに火消役宅が空地になると、薬草植付所の拝借地も宝永六年(一七〇九)に分割されて幕府奥女中に支給され二葉町という町屋になった。この町名は奥女中の名とも、再度町屋になったのが二葉の萌え出たのに似るからともいう。
【芝口】 宝永七年(一七一〇)に芝口門が札の辻(芝~三田間の南端)から現銀座の南端へ移転した時から、新橋は芝口橋、日比谷町は芝口と名を改めた。しかし、新橋の名はその後も俗に用いられていたようで、維新後にまた公式橋名に復活している。門敷地となった川北の出雲町が火消役宅跡へ来て芝口一丁目西側といわれるようになった。
 そして享保九年(一七二四)には現一丁目西端に芝口新町と汐留三角屋敷の町屋ができた。近世初頭に町屋となったり、屋敷地となったり、物置場などと変遷していた場所だが、以後この町屋が続いた。
 寛政六年(一七九四)に焼失した兼房町、伏見町、和泉町等の町屋は、現一丁目一四~一八番から二丁目一~五・一〇~一四番に移り、その跡地を防火空地としたが、その西部はのち大的場や本郷六丁目代地あるいは増上寺霊廟掃除の者と奥医師の拝領町屋となり、御掃除屋敷・快庵屋敷といい、残りの空地を久保町原と呼んだ。
【愛宕下大名小路】 現二丁目六・八番と二丁目五番の間は広小路通りで、西新橋の佐久間小路に続く二・三丁目間を稲荷小路と呼ぶのは、烏森稲荷の故であり、広小路に続き六丁目一九~二一番間に至る通りを愛宕下大名小路と呼ぶのは、大名邸が両側にあり、この一帯を愛宕山の下とみることから、丸の内の大名小路と区別してできた名称である。この町域内にあった大名邸は幕末では、上屋敷は仙台藩伊達家、龍野藩脇坂家など一三藩、中屋敷は鳥取藩植村家、会津藩松平家など四藩、下屋敷は岡山藩池田家だけであった。ほかに、幕臣の屋敷もあった。
【明治以降の移り変わり】 明治二年(一八六九)には、御掃除屋敷・快庵屋敷をもって、昔の幸町の跡なので新幸町とし、また、芝口一丁目の東側は、隣接地の芝口新町、汐留三角屋敷と合併して汐留町とした。同四年には、小石川の金杉町と境町の住民を移して露月町に隣接して露月町新地を設けたが、まもなくこれを露月町に合併する小変化があった。さらに同五年には、この町域の武家地に町名を及ぼして烏森町、日影町一・二丁目、愛宕下町一~四丁目を設けるとともに汐留町を芝口一丁目に編入した。
 烏森には、維新後に新橋橋北の芸妓が移って、新橋南地あるいは烏森町ということになった。当時までは新橋といえば橋北の、つまり現在の中央区側花街の里俗としての呼び名であったらしく、橋名でなく地名としての新橋が港区側となったのは、現在の東新橋に日本最初の鉄道駅として新橋駅が開業してからであった。
【変貌する街】 新橋駅開業以来、この町域は銀座に続く繁華街として、一時荒廃に帰した大名屋敷も町況を一変して繁華になり、とくに洋家具商の多い町としても知られるようになった。降って明治四十二年(一九〇九)末には高架電車線が設けられて、現在の新橋駅が烏森駅として開業した(烏森駅が新橋駅と改称したのは大正三年である)。
 関東大震災では、全町域が焼尽し、復興の区画整理では、昭和七年(一九三二)十二月一日、新橋一~七丁目と田村町一~六丁目に整理された。このときはじめて新橋は公式の町名となったが、当時の新橋は現今の東新橋の西辺に、また、田村町は西新橋の東部にもわたっていた。とくに北部の一角は、遅くともこのころまでに都心的な盛り場としての景況を確保していた。
 戦災もまた町域の大部分に及んだが、戦後いち早く新橋駅周辺に、いわゆるマーケッ卜(ヤミ市)が開かれ、善悪にかかわらず戦後復興の導火線になるとともに、ひき続き北部町域は戦前以上の飲食歓楽街としてひしめきあうようになり、南部町域には商店・会社などが多いが、駅前の再開発に成功を収めた以後は、銀座、丸の内とはまた異なった趣きの都心的事業所街をなしてきた。