西新橋一~三丁目

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 新橋一~六丁目に東接し、その西にあるための町名である。中世以前の記録はまったくなく、桜川あるいは赤坂川の沖積低地として形成された土地であることが知られるのみである。
【街の成り立ち】 近世にはいって、江戸城郭形成の必要からでき上がった市街ということができる。そのごく初期から大名等への藩邸用地として支給されたらしいが、民家の最初の来転は町域北辺へ慶長七年(一六〇二)のことであった。
 元来、桜田の集落は江戸城の西の丸下あたりにあったものが、家康入国以来、霞が関に移され、さらに虎ノ門から幸橋門に及ぶ外堀の外側堀端に移されたのだった(現虎ノ門一丁目一番から新橋一丁目一四・一五番に及ぶ地点)。そこが寛政六年(一七九四)一月に類焼して、跡地が防火空地とされることとなり、元地の面積の六分一厘余増しで、武家屋敷の跡地を支給されることとなった。
【桜田七ヵ町】 桜田起原の集落は八ヵ町であった(兼房町を除き桜田七ヵ町、兼房町を加えると皆久保町と呼ばれた)が、現町域の一丁目一一~一九番を占めたのは、桜田を冠称する善右衛門町、久保町、太左衛門町、備前町、鍛冶町と伏見町、和泉町の各一部である。町名については、それぞれ名主名あるいは同業街であろうという推測がなされている。なお、当初の堀端の町は善右衛門町、伏見町、鍛冶町などであったと推測されている。
 堀端の防火空地は、その後享保元年(一八〇一)には、西部が大的場や馬場、さらには幕府の厩場となり、東部は文政九年(一八二六)に堀に近い北側(現一丁目三番の北半)が大的場、その南側(同上南半)が本郷六丁目の代地になった。
【武家屋敷と里俗地名】 武家屋敷は、大名上屋敷が相当数あり、幕末まで臼杵藩稲葉家、小野藩一柳家など八藩、中屋敷は一ノ関藩、長岡藩など三藩、下屋敷はまったくなく、幕臣も大身のものが比較的に多かった。
 このように武家屋敷が多いと、町名がないため里俗の地名が生まれる。佐久間小路(一・二丁目間)は江戸時代初期に佐久間姓の屋敷が多かったからで、神保小路(二丁目八番先~二丁目一六番先)の名称由来は不明だが、その別称としての田村小路は西端に奥州田村家の上屋敷と中屋敷があったためで、それをまた小身小路ともいったのは大名でない者の屋敷が多く入り込んでいたためだといわれる。薬師小路(二・三丁目間)、秋田小路(三丁目二二番先~三丁目一七番先)という俗称もあるが、由来は不明である。(秋田小路は薬師小路と同じ位置との説もある。)
 明治二年(一八六九)、本郷六丁目代地(正しくは幸橋御門外を冠称)は、桜田本郷町と改称(当時代地門前等の旧幕以来の町名が改められた)した。そして明治五年には、現町域の武家地に新桜田町(一丁目四~六番)、南佐久間町一・二丁目、田村町、芝愛宕二丁目が成立した。正確には現在の三丁目二五番南辺には当時の増上寺境内である芝三縁町二丁目、のちの芝公園地も含まれている。
 維新後しばらくは大名邸が荒れはてたままだったが、やがて都心に近い商工業地として発展をはじめ、近世とは面目を一新した市街地となった。もっとも明治末までは、桜田諸町のあたりを除いて、住宅が混在する町況であったが、しだいに北部から会社事務所や商店が増加してきた。
 大震災の被害は北端を除いて、ほとんど全域にわたったが、町況を変えるまでの変化は起こらず、震災後の区画整理で昭和七年(一九三二)に町名区画が大きく変わり、新桜田町、桜田太左衛門町、桜田備前町の各一部を残して、芝田村町一~六丁目(丁目のない田村町も一部そのまま残った)が新設された。
 戦災も町域のかなりの部分に及んだが、戦後の復興では、北部に料理店などがふえたのが目立った。町名には港区の成立で旧区名の芝を冠称につけることになったが、昭和三十一年(一九五六)四月一日に芝桜田太左衛門町と芝桜田備前町を芝田村町二丁目に編入、翌三十二年一月一日に芝新桜田町を芝田村町一丁目に編入した。
 現行の住居表示が実施されたのは、昭和四十年(一九六五)七月一日であるが、そのころから高度成長期に入って、ビル化が進行し、純然たる都心的な市街を形成するようになった。