虎ノ門一~五丁目

1359 ~ 1363 / 1465ページ
 北部は低平で、南西へしだいに高く、四・五丁目は丘陵上にかかる。
 この丘陵の八幡神社社殿裏で、縄文時代前期・後期の遺物貝塚の存在が知られる。この町域の人跡は、これがもっとも古い。東に開けた台地上の住居好適地だったのであろう。
【城山】 伝承としては、古代末熊谷次郎直実の拠点としての西久保城山の名が四丁目一番あたりにある。その兜塚(かぶとづか)や熊谷稲荷、熊谷橋があった。中世に降って、太田道灌の砦とも伝える。いずれも築城適地とみられた結果であろう。道灌は飯倉城山の神明として現麻布龍土神明の社殿をここに再興、また、太田稲荷(のち飯倉熊野社に合祀)をも守護神として祭ったともある。小田原北条家ゆかりの番神堂があったというのも中世末である。ただ、これらの伝承も史実としては検証できない。
 この間、低地の陸化が、多少の消長をともないながら進行していったはずで、豊島郡桜田村の一部となってきたものであろうが、集落や往還の存在を推察させるような徴候もない。
 文献への確かな初出は近世でも比較的新しい。慶長元年(一五九六)に桜田から移転してきたというのは専光寺(三丁目二五番)で、同五年には八幡神社(五丁目一〇番)が霞が関から移り、将軍秀忠夫人が同年の関ヶ原の役に祈願したといい、青松寺(愛宕二丁目)も同年来転、貝塚(千代田区)からともなってきたという集落が、この町域での人家として最古の記録となった。今日の三丁目二〇番あたりである。
【久保町】 その二年後、霞が関に移されていた桜田村の民家がまた用地となって、慶長七年(一六〇二)に、のちに虎ノ門が建設される場所の外側の堀端に移されてきた。現一丁目一番で、その西部を久保町といったのは、このとき家康から久しく保つ町と書くよう命じられたためという。あるいは移転をくり返したため、安定を保証しようとした意味か。しかし、もう一度寛政六年(一七九四)に類焼して現西新橋に移っている。もっとも町名起原を『新撰東京名所図会』は、名主の姓というが、推測の時代からして逆に地名から名主の姓ができたかとも思われる。その東部は、太左衛門町という。当初、与左衛門・佐左衛門二名の所有地で、それを太左衛門町といった理由は不詳だが、あるいは名主の名であったものか。
 慶長十一・十二年(一六〇六・七)ころには、一丁目一番先に石塁と土橋程度の城郭施設の建設を行なっているという。虎ノ門の称には諸説あるが、四神説の右白虎によるとするのが確からしい。同十六年には、江戸城内紅葉山に開創して霞が関に移っていた天地庵が天徳寺と改称して現地(三丁目一三番)へ来転し、その門前表町(三丁目八番南部西側)は同時に許されたという。
【西の久保田町】 現五丁目一・二番と三番西端、一一番北端と一二・一三番の所へ、家康の身近に仕えた仲間(ちゅうげん)が組屋敷を与えられたのは慶長十九年で、当初西久保田町といった。西の久保と読み、愛宕山の西の窪地の意という。田町はもと田地の意で、近世初期に市街地化した丘陵麓の低地水田の変化を思わせる。
 慶長年間でいちおう町況は安定し、その後、光円寺(三丁目二二番)は元和四年(一六一八)桜田から当地へ移転し、また、青竜寺(三丁目二二番)は元和六年の開創で、両寺の門前は同じ正保元年(一六四四)に町屋を許された。
【慶長以後の諸町の移転】 町域につぎの変化がみられるのは元禄年間(一六八八~一七〇四)で、三丁目三・五番に上野の新下谷町・車坂町が代地を受けて来転したし、葺手町(ふきでちょう)(由来不詳、屋根職人の町か。現新橋一丁目二番)の名主藤吉が、四丁目一番南部から二番にあった幕府の土砂採取場へ移されてきた。丘陵の端部で砂層の露出があった所らしく、お土取場・砂取場といい、藤吉は土砂調達業者であった。
 西久保田町が前述仲間(ちゅうげん)らの出身地三河の村名をとって神谷町を称し町屋敷となるのが、元禄九年(一六九六)で、江戸城の坊主衆四人が三丁目二五番北辺の町を拝領して、西久保同朋町となるのが同十二年である。
 享保六年(一七二一)になって、小変化があり、芝富山町が現芝公園三丁目四番あたりから前記同朋町の西隣へ移った。これより先の正徳三年(一七一三)に元地の大部分が防火空地となり神田へ代地を受けていたその残りが移転したものであった。
 寛政六年(一七九四)に久保町・太左衛門町は全焼し、四たび移されて現西新橋一丁目一一~一四番へ行き、跡は防火空地になったが、享和元年(一八〇一)には弓射練習場になり、さらに文政七年(一八二四)には、俗に比丘尼屋敷と呼ぶ幕府御用屋敷となった。
 武家地の状況をみると、幕末に上屋敷が丸亀藩京極家、人吉藩相良家など六万石から二万石程度の八藩、中屋敷が水口藩、松代藩など四藩、ほかに前記幕府御用屋敷、勘定奉行役宅、幕臣邸地があり、当時としては都心的な景況であったといえよう。
【明治以降の移り変わり】 明治二年(一八六九)に町名整理があって神谷町と葺手町のほかは西久保巴町と同広町となり、また、現中央区から明石町・船松町、現港区三田あたりから芝車町・伊皿子七軒町・三田功運寺門前・三田台町一丁目などが代地を移し、西久保明船町(のち明舟町と書く)とし、麻布今井町・入寺町・赤坂氷川町の代地を移し今入町とした。明治五年には、これらの町と武家地・寺社地を編成して琴平町、西久保桜川町、溜池葵町、西久保城山町を設立した。以後今入町が虎ノ門となり、冠称が変わるなどの小変化はあったが、ほぼ住居表示までその町域・町名が続いた。
 町況は維新後沈滞ののち、京極家邸内社の金刀比羅宮(万治三年〔一六六〇〕四国琴平から勧請、文化〔一八〇四~一七〕の末、一般の参拝を許した)付近から復活、近代都市の都心的状況をみせてきた。戦前はなお丘陵部にかけて邸宅もみられたが、戦後はとくに高度成長以後、大中小のビル群におおわれた。