芝大門(しばだいもん)一・二丁目

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 桜川の沖積地にあり、この町域の古社として、東京でも有数の芝大神宮がある。もと飯倉神明あるいは日比谷神明ともいわれ、近世になってからはおおむね芝神明として知られた。
【芝大神宮】 『文政寺社書上』の神明社の記録にみると、寛弘二年(一〇〇五)勅命により伊勢内・外宮を勧請して創建したと伝え、この勧請の伝に異論はないが、「旧地については往古より引地等不仕候」というのに対しては、増上寺の山際飯倉山とか、古墳である芝丸山とか、増上寺境内飯倉天神の地とか、または三田小山の天祖神社(元神明)の地とか、さまざまな伝承がある。飯倉日比谷邑の神明としたものもあり、今日に比定すれば、旧地は千代田区の日比谷あたりから三田までに及ぶ広い範囲に縁があったようにみえる。
 陸化は標高の差であるとともに、港区のこの地域では、同時に東から西への海岸線の移動を意味する。十一世紀の海岸がこの町域で現在の大神宮社地を含んでいたかどうかは微妙なところであろう。
 飯倉の名にかんして芝神明で頒布する縁起物の千木箱を『日本書紀』に伝承する六世紀の救荒が起原というものもあり、郡郷制の御田郷の設備ともいう。古い穀霊の信仰が伊勢に結びつけられたものとも考えられる。
 史料としては、寿永三年(一一八四)、頼朝が飯倉の地を伊勢神宮に奉献し、神田の泉順に住吉神を勧請したと『吾妻鏡』にあって、社伝はこれを相殿の解説でふれており、また、建久四年(一一九三)社殿の寄進造営を社伝に記している(飯倉については東麻布・麻布台の項を参照)。
【宇田川】 この土地の住民についての記録は、近世にはいった慶長三年(一五九八)以後である。東北部の現一丁目三番の宇田川町は新銭座へ流れ出る北部の川の名をとったもので、宇多という刀を取り落とした者があったという。中世の江戸城主上杉朝興の臣宇田川和泉守の子喜兵衛が開いた町だからとも伝承し、川名が先か人の姓が先かは不明であるが、江戸の古町のひとつである。その西部の宇田川横町は、宇田川町から派生したものであろう。
【増上寺門前諸町】 その南は三島町で、増上寺来転のとき、門前地として受けたもので、寛永十八年(一六四一)ごろ、さらに増上寺内の添地を加えたが、これが島の文字がつく三武家屋敷跡で三島町と唱えたという。ここは門前地として公役等は免れ、増上寺へ役銭を出したが、やはり古町として待遇された。さらに南の神明門前は、飯倉神明の神職所有地で寛永(一六二四~一六四四)から町家が建ち、増上寺大門の通りの拡幅で正徳三年(一七一三)一部代地が神田に与えられている。延享二年(一七四五)町方支配にはいった。宝暦八年(一七五八)さらに境内地に町屋を許され内門前といったが、隠売女(かくしばいじょ)をおいて取締りを受けたりした。いわゆる岡場所のひとつであった。
 七軒町は、さらにその南だが、増上寺来転以前すでに井口屋敷の名があったという。同寺来転時には門前地となり、七軒の地主が所有していたための町名という。料理店などもあって、神明の門前町として繁華であった。神明町は、現一丁目四番であり、現浜松町側とともに東海道を挾んでいた。草創の年代・人物ともに不明である。
 一丁目一六番と二丁目四・五・一二番については、次の浜松町の項でのべているとおりで、そのほかの二丁目町域は中門前一~三丁目、片門前一~三丁目である。いずれも増上寺来転以前に井口屋敷と呼ばれた場所で、来転とともにその門前町となった。大門の通りの拡張で一部代地を神田に受けたこともある。門前中通りで中門前、片方が増上寺山内に面した片側町で片門前である。
【神明前】 現一丁目一番の西側裏は日陰町通りと呼ばれた道路の延長上にあり、ここには書籍、絵図、錦絵、伽羅油など江戸の特産品を売る店が集まり、神明前とも俗称される門前町の性質とともに江戸の中心市街の南端として、勤番者などの江戸土産を誂(あつら)える場所としてにぎわった。なお、現町域の北西部、一丁目一・一〇番などは増上寺の境内地で、三島谷と呼ばれて末寺寺院の櫛比する場所であった。
【明治以降の移り変わり】 明治五年(一八七二)に、この増上寺境内地は三縁町の町名を付されたのち、芝公園が設定されて芝公園地と称するようになり、また、芝神明の境内地は神明門前に合併されて全体が宮本町と称するようになった。
 この町名行政区画は、ほぼ昭和四十七年(一九七二)一月一日の住居表示まで続いた。この間の変化といえば、片門前の西側の桜川河川敷が片門前に編入され明治二十三年(一八九〇)道路化し、大正九年(一九二〇)占有許可、昭和十年(一九三五)まで続いたが、港区の創立にともない芝の冠称を各町名に冠した程度であった。
 町況は、芝大神宮と名を変えた社前には神明花街ができたが、鉄道の発達などのために、むしろ盛り場としてよりも商店街として発達した。二丁目は中小事業所にまじり住宅もあったが、大門のある通りを中心に戦後、とくに近年飲食店、書店などの都心的な業種の増加が目立っている。
 なお、大門というのは増上寺の惣(総)門に当たる朱色の門の俗称から地名となり、電車停留所名となり、そして地下鉄の駅名になった。ダイモンと読み、日本橋や新吉原の大門(おおもん)より沿革は古い。