おそらく慶長九年(一六〇四)に、この町域の西辺を東海道が通過することになるまでは海浜の地で、まだ人の居住には適していなかったに違いない。その前年の慶長八年に神田山をくずして、この増上寺海辺を埋め立てたともいう。
【古川】 ただ、町域南部にあった近世の新網町は、漁業集落に起原をもつ所で、その南方の金杉と一体で中世にはすでに芝浦と呼ばれているもののうちにあった。現在、その金杉とはっきり区別している古川は、かつては河口デルタの一細流であって、寛文七年(一六六七)、延宝三年(一六七五)などに数回にわたり掘り広げられて本流となったもので、それまでは本流はさらに南方へ流れ出ていたとされている。深い軟弱地層をもつ谷底地形は、現在ではまったく埋没されているが、本町域南端よりもさらに南を赤羽橋付近から南東へ延びていることが地盤調査によって看取できる。
東海道開通後の町域の近世についてみると、西北端には古く芝居小屋があったという現東新橋二丁目西南端の柴井町をも若干含んでいるようにもみられるが、その南に続いては芝大門側にもかかって、東海道両側に北から宇田川町、神明町、浜松町一~四丁目と続いて古川岸に至り、浜松町三丁目半ば以南の東部に寛永以来北新網町(または新網町北側とも)、南新網町(同じく南側とも)があり、さらに古川北岸に湊(みなと)町があって、現一丁目の一・一〇・一八・二七番を除く部分と現二丁目三・四番は、おそらく町開拓に遅れて武家屋敷地となった。
宇田川町、神明町はともに起原不詳であるが、古町だというので、江戸城内の御祝儀などで能の拝見を命じられることになっていた。これは神明町以北を江戸として画する時代のあったことを考えさせる。
【神明町の成り立ち】 神明町というのは、飯倉神明(芝神明、現在の芝大神宮)門前の町という意味であろうと推察されるが、法制上のいわゆる門前町屋ではない。旧浜松町一~四丁目は、慶長年間(一五九六~一六一五)ころは、増上寺住職の親戚で代官の奥住久右衛門が名主を兼ね、久右衛門町一~四丁目といっていた。この二・三丁目の東、海側に増上寺荷揚場があって方丈河岸(または北条河岸)といっていたというのは、そこに大名屋敷ができる以前に違いないが、この町が慶長三年(一五九八)増上寺の来転以後、堂塔伽籃の建設にかかわりながら成立した町であろうという推定が可能である。延宝五年(一六七七)には四丁目の住民が一部移って芝松本町二丁目となっている(芝の項参照)。
【街道筋のにぎわい】 元禄九年(一六九六)になって遠州浜松出身の権兵衛が名主となり、出身地名から浜松町と改称したが、この改称直前の東海道ぞいに足袋、合羽、綿、墨筆、古道具、扇子、竹皮、油、蠟燭、檜物、畳、馬宿、飛脚宿、旅籠(はたご)などがあって(『国華万葉記』)、街道町と当時の身回り品商店街らしいおもむきがあったことが知られる。文政年間(一八一八~三〇)まで降ると、これに食品・嗜好品などがふえてくるので、元禄当時はまだ外食が少なく、食品も農村的な自家生産によっていたらしいことが知られる。国道の裏側は、職人などの居住するいわゆる裏店であったのではなかろうか。
【新網町】 漁師集落であった町域南部海側は、寛永七年(一六三〇)網干場を受け、同十一年に市街と認められて新網町となった。その南の川端は、寛永七年(一六六七)に金杉橋北側を多門建設用地としたが途中で中止して、元禄九年(一六九六)に跡地に芝新同朋町を作った。その北部を「ひび町」とした延宝七年(一六七九)の図もあるが、この町には他の記録がまったく見当たらない。宝永(一七〇四~)のころ新網町の南側を芝新同朋町ともども武家地とした。その新網町は三田と麻布に代地を与えられた。
その後、再びこの地を町屋とした時、南新網町の町名が復活したが、新同朋町は他にも同名の町名があってまぎらわしいので、湊(みなと)町と改称した。復活した新網町は街道筋のせいもあってか、湾内漁業の不振とともに過密居住になった模様で、震災までこのような状態が続いたが、著名芸能人などを輩出したところである。町内の稲荷神社が寛永年間(一六二四~一六三三)開創というのは、町と同時ごろにできたことを裏づける。
幕末に北から旗本神尾氏、赤穂藩森家、新見藩関家、小田原藩大久保家の各上屋敷があり、このうち神尾、森、関は古くから続き、天保ごろから幕臣邸地が神尾家の屋敷をせばめた。大久保家のところは加藤家の屋敷が当初続いて近世後期から屋敷の入れ代わりがたび重なり、その末期に大久保家となったものである。
【明治以降の移り変わり】 明治五年(一八七二)にはじめてこの武家地を、北にあった芝新銭座町と神明町、浜松町一・二丁目にそれぞれ合併した。慶応義塾の命名地である新銭座町は、この付近の里俗地名であったが、このとき公式町域にはいった。維新前後に江川塾や攻玉塾もここにおかれた。この当時は腹掛、股引、足袋、煙草入れ、傘、べっこう櫛などを生産する町であった。
震災を受けて、町名を昭和七年(一九三二)から浜松町一~四丁目と整理した。この町域は、それ以前と同じく現芝大門の国道側の一側を含む町域であったが、現二丁目に大きく市電用地があったほかは、おおむね小事業所や生産材料商店の多い町況を示しており、これは戦後の復興後も、都心化傾向を強めつつも、本質的な相違はみせていないようである。
なお、モノレール駅の開業と、わが国で二番目にできた超高層ビルである貿易センタービルの建設は、この町域のひとつのモニュメントとなるものであった。
住居表示は、昭和四十七年(一九七二)七月一日実施され、国道十五号線の西を芝大門とし、この町域はその東側の四丁目(ちょうもく)を増上寺に通ずる浜松町駅前の通りで二丁目(ちょうもく)に変更して旧町名を踏襲した。中世発祥の町名の多い港区では、他地方の地名をとったこととともに異例に属する。