海岸一~三丁目

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 字義どおり、港区の東辺海岸に北から三丁目(ちょうもく)並んでいて、全域人工造成地である。
【旧芝離宮庭園】 高速道路工事にともない、海象(せいうち)の頭骨が発見されたが、これは他から流されてきたものであろう。ただし、近世初期のうちに一丁目の西辺に当たる部分には、芝新網町と芝湊(みなと)町の町屋が若干かかっており、また、明治五年(一八七二)に神明町、浜松町一・二丁目に編入される武家地と浜崎町という新町名を設定される部分が造成されていた。それまでは潮の干満する葦沼であったことが古地図などから理解できる。新網町、湊町については、浜松町の項にのべたが、このうち、幕末に紀伊家下屋敷となっていた現在の旧芝離宮恩賜庭園(一丁目四番)は寛永の初め(一六三四~)会津藩加藤邸となったところで、元禄時代(一六八八~)に小田原藩主大久保忠朝が屋敷として、潮入り回遊式の庭園楽寿園を完成した。今日でもその面影を残している国指定の名勝である。浜崎町の東京瓦斯の敷地は、明治の東京にはじめて瓦斯を供給した工場の所在地であった。
【埋立地の拡大】 近代の造成は、東京港築港が認められず、やむをえず隅田川口改良第一期工事として、明治三十九年(一九〇六)から行なわれはじめた。同年十一月十四日埋立許可、大正二年(一九一三)一月二十一日完成、同年五月二十七日芝区編入となった日出町(ひのでちょう)が、もっとも早く完成した(現二丁目全域)。東辺にあって日の出を望む意であり、日之出(ひので)桟橋の名を今に残している。
 ついでは、大正元年(一九一二)八月十日着工、同八年二月二十一日完成、同年五月芝区編入によって芝浦町一丁目となった現三丁目一一~二六番(正確には九・一〇番の一部を含む)であり、また、大正十二年(一九二三)三月十三日着工、昭和二年(一九二七)五月二十一日完成、芝区編入によって竹芝町となった六~一五番であった。竹芝とは『更級日記』の伝説による命名である(芝および三田の項参照)。こののち大正十五年(一九二六)十一月着工して昭和六年(一九三二)十月に完成した埋立地は、いったん浜崎町に編入されたが、昭和八年一月一日埋立地一帯の町名が整理され、海岸通一~三丁目が完成し、また、昭和九年五月十一日着工、同十年四月一日完成の町域は、昭和十三年に海岸通四丁目とした。この四丁目は戦後、昭和三十五年三月一日さらに一部埋立地を編入している。
【東京湾の中心―二桟橋と一岸壁】 開港当初のこれらの造成地は、すでに明治末から舟運に用いられていたが、関東大震災が築港の必要を大いに進めたもので、北から竹芝桟橋、日之出桟橋(ここに貨物専用の芝浦駅がある)、芝浦岸壁を擁して東京港そのものを形成した。
 一丁目は当時あまり利用者がなく運動場などに使い、二丁目は港務所を置くなど東京港の中心となり、三丁目は労務関係施設が多かった。
 昭和二十二年にこの一~四丁目は、港区の成立で、他の諸町同様に、旧区名の芝を冠称し芝海岸通一~六丁目(五・六丁目は現港南)となったが、住居表示施行で、昭和四十年三月一日に一・二丁目のおのおのと、三・四丁目を合併して三丁目とし、単に「海岸」と称した。新町名は簡略を旨としたものであると同時に、すでに地元町会等において、「わが海岸町会は」というように、地名として慣用されていたためである。こんにちでは、晴海・豊洲埠頭の活動で、この地域の港湾施設としての相対的比重は低下したようにみえるが、東海汽船は伊豆七島への航路起点を戦前の芝浦岸壁南方に設けた竹芝桟橋へ移し、都民に親しまれる港として、今も港区の名に負う地域としてよく知られている。近年、オフィスビル化も目立っているが、現在も倉庫業者を主とする地域であることに変わりはない。