【芝浦の由来】 芝浦の地名の初出は、芝の項でのべている道興准后の歌である。これは芝の海岸という意味で芝の浦といわれたのであろうが、やがて「の」が脱けて芝浦の地名となった。
芝の浦といえば海岸を指すが、芝浦となっては、その沖の海面を指していう感じが強い。将軍への魚献上をする芝浦は、漁業権を含む水揚げ海岸、あるいは漁業集落の意味に違いないが、浮世絵などは、海上を芝浦と題して描いている。海浜の芝浦は、町名としては本芝を使っており、公式の地域名となるのは、近代の埋立て以降である。
現在の芝浦一丁目のうちで、近世にすでに陸地となっていたのは一~四番と五番の北部、七~一一番であった。古川の河口デルタの末端で、とくに一・二番の鳥取藩下屋敷、七~一一番の鯖江藩下屋敷となっていたところは、近世初期の人工的な築成によったものであろう。現在の一丁目三番には元禄六年(一六九三)勧請という潮干神社があった。
明治五年(一八七二)に、鳥取藩邸の場所は、芝金杉新浜町となり、鯖江藩邸は本芝一丁目へ編入された。そして当時鉄道が海岸ぞいに路床を築成して敷設されたが、これらは本芝一~四丁目に編入されている。なお、現町域に、近世以来の漁業集落に発祥して続いていた芝金杉裏一丁目や芝金杉浜町(いずれも寛文二年〔一六六二〕町方支配)の一部分も含まれている。
【埋立ての進行】 明治も末の四十一年(一九〇八)七月、本芝の地先海面の埋立てに着手、また、新浜町の地先も翌年四月に埋立てを開始し、前者は同四十三年十月完成、同四十四年三月二十五日芝区に編入、金杉浜町の南に当たるので南浜町と命名し、後者は大正二年(一九一三)一月完成、同五月芝区金杉浜町に編入している。
この名称は、昭和十年(一九三五)末まで続き、翌年一月一日から埋立地の町域町名整理で、古来の称をとって芝浦町一丁目とした。線路より海側を芝浦としたもので、線路敷の本芝などが編入されたわけであった。
二~四丁目はすべて近代の埋立造成地で、鉄道用地として、まず三・四丁目の線路敷が、本芝四丁目、田町一~九丁目、車町に編入されている。現在の二丁目となる海面は、明治四十三年十月埋立て着工、大正八年二月完成、同年十二月芝区に編入されて芝浦二丁目となり、三丁目の一~五番を占める海面は、明治四十三年十月着工、大正二年十一月完成、同年十二月芝区に編入、翌三年に新芝町を設立した。
また、三丁目六~二〇番は、明治四十五年四月着工、大正八年二月完成、同年五月芝区に編入して芝浦町三丁目とし、四丁目二~四番は、大正二年五月着工、翌三年十月完成、同年十一月芝区に編入、月見町一丁目となり、四丁目五~一八番は、明治四十五年五月着工、大正八年二月完成、同年三月芝区に編入して月見町二丁目となり、四丁目一九~二〇番は、大正四年八月着工、翌九年十月完成、同年十二月芝区に編入して月見町三丁目となった。
これらの埋立地は、昭和十一年(一九三六)一月一日に、町名の整理を行なって、芝浦町二丁目が芝浦二丁目に、新芝町と本芝四丁目、田町一~五丁目の各一部分が西芝浦一丁目に、芝浦町三丁目が西芝浦三丁目に、月見町三丁目が芝浦三丁目に、月見町一丁目と田町五~九丁目、車町の各一部分が西芝浦二丁目に、月見町二丁目が西芝浦四丁目になった。
このうちの「月見町」の名は、この海岸が近世以来の陰暦七月の「二六夜待ち」の名所であったことにもとづいている。
さらに、昭和三十九年(一九六四)の住居表示の町名変更では、西芝浦一丁目と三丁目で芝浦三丁目を、芝浦三丁目と西芝浦二・四丁目で芝浦四丁目を構成した。とくに芝浦三丁目のばあい住居表示の前後で、まったく違った地域を指すので注意を要する。
【町況の移り変わり】 明治時代には新浜町に芝浦の風光があって料亭などもある三業地となるとともに早くも工業地帯化のきざしも現われて、やがて、工場倉庫街が主力となっていった。
戦後の復興により今日では都心に近い新興の町域として、三丁目の田町駅東口を中心に、とくに昼間人口が増加し、商店もふえ独特な町況を示している。都交通局車輌工場は古くからの存在だが、清涼飲料水工場や冷凍食品の普及による倉庫等戦後の建物も増加し、全体に変貌期を迎えている。