港南一~五丁目

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【お台場】 近世まですべて芝浦沖の海上であった場所である。現町域のうち最初に造成されたのは、現五丁目一三・一四番であった。すなわち、幕末海防の要請によって嘉永六年(一八五三)八月から急遽、築造を開始した砲台地であって、一四番は安政元年(一八五四)四月に、一三番は同年十一月に竣工した。一四番は第三台場、一三番は第六台場であって、一四番と同月に第一・二台場、一三番と同月に第五台場も完成しており、十一月には御殿山下のいわゆる地付台場もできあがったが、第四台場は七割、第七台場は水面下の文字どおりの捨石のみで中止された。
 明治六年(一八七三)には、第一軍管海岸砲隊、同八年には陸軍省所管となって、同十一年に芝区に所属した。そのうち第四は、明治十八年ごろから陸軍造船所となっていたが、同三十八年第一・二・四・七砲台地は陸軍省が、第三・第六砲台地は内務省が、第五砲台地は官有地として芝区大字品川沖一~七番地として登記表示された。ただし第一~三・六・七は所有権登記、第四は保存登記、第五は官有地表示のみであった。
 これが明治四十一年の東京市市勢調査に当たっては、芝区品川砲台と表示されており、明治四十二年造船所のあった第四は内務省移管、大正元年(一九一二)東京府から緒明圭造に払い下げられ、緒明造船所となった。大正元年には第三・第六台場も東京市に移管、同六年には第一台場も緒明に払い下げられた。
【品海砲台】 大正九年十月一日の国勢調査で芝区品海第一~第六砲台と表示され、以後それを踏襲して芝区品海砲台の地名が定着したと思われる。第三・第六は大正十三年府史蹟に仮指定、同十五年国指定史蹟となった。昭和二年(一九二七)、第三を台場公園として公開、九年に第二・第五も東京市に払い下げられた。その後未完成の第四は埋立ての進行で品川区に帰した。
 一方、高輪地先では、現二丁目の西部に、明治三年鉄道線路着工とともに海上に築堤が出現した。はじめ高輪との間に海を残していたが、明治三十年までには、そこが埋め立てられ高輪南町となったのに直接接していた。その後、その東方海上へ鉄道院用地としての埋立てが進み、大正五年ごろまでには陸化したらしい。その地先に埋立事業が始まったのは、大正十二年三月で昭和四年七月完成、八年三~六月にわたって芝区に編入、同十一月十六日に高輪の浜辺の意により高浜町を設立した。現一・二丁目である。
 現三丁目地域と四丁目のうちの北部地域は昭和九年五月埋立着工、十七年二月完成、十八年四月一日芝区に編入、海岸通五・六丁目となった。また、現四丁目南部は十年五月着工、中部は十一年三月着工、両者ともそれぞれ十八年十月完成、十九年二月完成で三月に海岸通六丁目へ編入された。
 戦前には、あまり利用もはかばかしくなかったようであるが、戦争中から屠場その他大規模な工場用地として生かされてきた。
 昭和二十二年港区が創立されるとこれらの土地は芝品海砲台、芝高浜町、芝海岸通となったが、その地先に二十六年三月からいわゆる品川埠頭となる海上の埋立てが開始され、第一・第五台場はそのなかに包含された。昭和四十年三月一日には一~四丁目に港南として住居表示を実施した。新表示の「港南」は、港区の南部の意であるが、それ以前に港南中学校などの名に用いられていたものである。現五丁目地域の品川埠頭の完成は、四十二年五月で、同六月港区に編入、第三・第六台場ともども港南五丁目とした。第二台場は航路に当たって除却され、崩れ台場といわれて海面に隠顕していた第七台場は跡形もなくなった。
 三・四丁目には水産大学、都営住宅、自衛隊分とん地、水道局施設などがあり、五丁目には東京税関、東京水上警察署などがあって、上屋等の埠頭設備も整っている。
 なお、五丁目一四番に接続する一三号埋立地には港区運動場が設けられ、歴史的沿革、人口中心地点からの時間・距離・心理的利便を考えれば当然港区の名におう地域として将来の発展が期待されている。