古川の南岸の沖積低地にある。漁業用の土錘が芝園橋に近いところから発見されたことがあるというが、これが当町域の最古の人跡であろう。その時代は古代から中世まで幅広く考えられているが、『延喜式』記載の貢納に海産のない武蔵の状況とどう関係するであろうか。
ただ、この古川河口の沖積低地は、寺院縁起を別として、史料的には中世も太田道灌以後にならないと現われてこない。
【芝の由来】 道灌謀殺直後の文明十八年(一四八六)十月一日の『廻国雑記』にみる「やかぬよりもしほの煙(けむり)名にも立つ船にこりつむ芝の浦人」とあるのをもって芝の地名の初出とする。これ以前永享六年(一四三四)に芝原の文字があり、『平安紀行』に「つゆしげき道のしばふをふみちらし駒にまかする明けくれの空」とあって、この歌は道灌作とされるが信は措きがたい。(もっとも『将門記』の武蔵武芝や『更級日記』にみる「竹芝といふ寺」「竹芝と言ふ荘(または坂)」とある武芝または竹芝を芝のゆかりとみられないこともないが、これをとる史書地誌はない。)
芝の語源としては、芝生や芝草の芝、斯波氏の斯波、のりそだにする柴などの諸説がある。文字は古来、柴・芝の双方を書くが、しだいに芝がふえたようである。
天文二十三年(一五五四)の古文書に「柴金曽木」は芝金杉をさすとされ(伝承では金洲崎ともある)、以後柴船持、柴村新宿などとあって、ここを重視した小田原北条氏の政策をみることができる。このころ、この土地の開拓が進み、漁業・舟運が盛んになったことを示す。二丁目三〇番あたりから発掘された井戸枠とみられるあすなろ材の桶胴状の筒(区立三田図書館蔵)は、この海岸集落の遺構と考えられている。新宿の言い方に新しい往還の造成も推察することができる。
【寺社の縁起にみる芝の発展】 寺社の伝承を集落の沿革についての参考にするとすれば、まず、いわゆる橋戸の安楽寺(二丁目二八番)がある。創建は不詳だが、貞永元年(一二三二)に、親鸞の教化によって真言宗から浄土真宗に改宗し、親鸞はこの地で年を越したという。橋戸は、昔惣門のあった所の地名というが、現在より南方にあった古川渡河地点の意であろうか。それが住職の姓になっているのは、同じく親鸞による改宗の麻布善福寺のばあいと同様である。
鎌倉時代以前に陸化がこのあたりまで及ぶこともありえないことではない。当地は河口デルタで、古川はこの平地一帯を沖積した港区地域では最大の川であり、近世の開削まで、入間(いるま、またはいりあい)川とよばれた。一~四丁目間で東京湾に注いでおり、豊島・荏原郡境もここにあったと考えられる。(もっとも古くは郡境はさらに北方にあったといわれ、またさらに降っては、現四・五丁目間が郡境だったともある。)
ついで、勧勝寺(一丁目九番)は正応五年(一二九二)に足立郡から来転した寺で、西応寺(二丁目二五番)が北条時頼の伯母によって開創されたのが応安元年(一三六八)で、のち家康から寺領を賜与されている。
御穂神社(四丁目五番)が漁業関係の社として勧請されたのは文明十二年(一四八〇)で、海運・水産の発達の反映であろうか。
西信寺(四丁目一番)が永禄元年(一五五八)に開創、くだって浜の安楽寺(一丁目一二番)は天正十年(一五八二)で、これは海浜にあって、浜のと冠称し、橋戸と区別したという。浄善寺は慶長十五年(一六一〇)西応寺中に浄林寺として開創している。以上の縁起は、不自然さはなくほぼ発達の状況を反映していると考えることができる。
【金杉と本芝】 近世にはいって、芝、金杉の集落は、慶長六年(一六〇一)東海道の新路線決定とともに、その往還に沿う市街となった。芝五丁目二九番先の南端をもって江戸の入り口としたことは、風光明媚で〝日暮らし御門〟といわれた芝口門の建設(元和二年・一六一六)をもってしてもわかるが、ここから飯倉方面へと分岐して、従来の都心であった江戸へはいる地点だったと考えるべきであろう。
本芝(現四丁目)には七人の百姓が海辺で漁労に従事していたが、家康入国後も金杉ともども副食の魚を献上することになった。しかし、のちの寛政四年(一七九一)には、銭をもって魚の献上に代えている。
金杉は現一丁目と二丁目西辺の東海道(現国道一五号線)両側で、通一~四丁目、裏一~五丁目、浜町、片町などがあり、ほかに橋戸安楽寺門前、裏三丁目経覚寺門前、西応寺町の門前町屋もあった。
本芝は一~四丁目が現四丁目の東海道両側の町で、それから派生したと考えられる材木町、下(し)タ町、入横町があり、ほかに元禄(一六八八~一七〇四)から拝領町屋となった六軒町が認められる。
本芝とは、ここが元来の芝であるとの意であるが、近世に至って、芝の地名が何故か優勢になって範囲を広げ、北は新橋・外堀の線まで、南は高輪村であった二本榎あたりまでを包摂するようになったために、その称呼をもって、地域称と区別しなければならなくなったためと考えられる。本を冠した時期は明確でないというが、近世の芝拡大以後に違いない。
現四丁目一六~一八番にあった砂浜は、雑魚場と呼ばれ、湾内の小魚を水揚げした。沿岸漁のため夕方の水揚げもあり、新鮮さで〝江戸前〟の名の起原をなし、また、人情噺(ばなし)「芝浜」の舞台ともなった。
【田町】 本芝の南西に東海道ぞいに続く田町は、金杉、芝と起原を異にし、字義どおり、海辺低地の水田を東海道開通とともに、その両側が市街地化したもので、その起原は明確でない。元来、上高輪村に属し、寛文二年(一六六二)町方支配ののちも町奉行・代官両支配で代官へは上高輪町と書き出している。一~四丁目が現町域に属する。芝横新町、通新町は田町成立に遅れて付随して発生したもので、幕府医師が拝領した町屋が起原の寿命院上げ屋舗(やしき)や同朋衆拝領の三田同朋町も現四丁目西部にあった。
なお、このほか現三丁目東北の一角(二丁目一六番)に芝松本町一・二丁目、芝新網町代地があり、金杉橋きわに多門建設のことがあって寛文七年(一六六七)に代地を受けてきたものであった。その多門用地は召し上げられたが明地であって、天和四年(一六八四)から同朋衆が拝領して金杉同朋町となった。
武家屋敷はむろん、近世以後の支給で薩摩藩上屋敷(現町域中央部)のほか上屋敷に柳本藩織田家など五藩、中屋敷には徳島藩、高知藩など三藩、下屋敷に大垣藩、鯖江藩など四藩があり、町人をおく私有の抱屋敷をもつものに薩摩藩をはじめ四藩があって、大藩の屋敷が多い。四国町という俗称があったことには数説があり、国持大名四家があったためとか、薩摩に薩摩・大隅・奄美・硫球の四国があるためとかいうが、徳島・高知の四国両藩邸にもとづくものであろうか。
【明治以降の移り変わり】 明治二年(一八六九)に金杉一~四丁目、川口町、仲町等に町名町域を整理、同五年(一八七二)には武家地・寺社地を合併あるいは三田四国町、新堀町などを新設した。
明治初期に町況のなかで目立ったことは、幕末焼討事件のあった薩摩藩邸跡を中心に、三~五丁目にまたがって勧業寮、三田育種場が設けられたことであり、その後は大・小の工場が増加した。戦後もその景況は続いたが、住宅の混在が減少し、職・住の分離も進んだ。近年はまた、主要道路に面してビル化も進行している。