三田一~五丁目

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 淀橋面の東辺に属する丘陵部が、古川の浸蝕谷によって南北に長く残された地域で西に低地もある。
【伊皿子貝塚】 すでに縄文時代には貝塚などによって、人間が居住していた跡を残しており、古くから開けた。昭和五十三年十月の時点で発掘調査中の伊皿子貝塚は、四丁目一九番の一部一帯にあり、厚さ一~二メートルに及ぶ貝塚や方形周溝墓、住居跡等もあって、縄文前期以後各時代の重層的遺跡として三〇〇平方メートルにわたり探索されつつある。
 丘陵上の四丁目一六番あたりにも弥生時代の遺物が散見されており、さらには、円墳かと疑われる盛土である亀塚(四丁目一六番)がある。
【亀塚】 この亀塚が『更級日記』にみる竹柴寺の跡で、京の衛士に上った男が皇女と逃れて住んだ場所であると唱えたのは、近世になって、この土地に屋敷をもった大名土岐頼熙(よりおき)の建碑にみるのが始めである。この土地が丘脈の頂部を通過した古街道(奥州街道・鎌倉街道)とされるのは、高野聖開拓または聖商人宿の所在という聖坂の起原とともにおそらく根拠のあることであろうが、亀塚がただちに『将門記』にみる武蔵武芝に結びつけられたりするのは、確かな根拠があるわけではない。
 亀塚伝説には、神仙譚の形式をとるものもあり、古墳の石槨の断片らしきものの出土伝承や副葬土器といわれるものの存在などもあるが、いずれも、江戸・東京の人々の回顧のよすがとして重要であり、ほかに比定される遺跡もないまま貴重な存在となっている。
【「三田」の由来】 三田の名義は、もと御田であって神領あるいは皇室領の稲田とされたため尊称がついたものという説がもっぱらであり、『和名類聚抄』のなかの荏原郡下の郷名御田郷に比定される。
 神領としても皇大神宮領というものと稗田八幡(三丁目七番。現御田八幡という)領という説があり、屯倉付属の田という点ももうひとつ明瞭でないが、御田八幡領説を除いては、いずれも中央の国家・政府に結びつけられている。
 三田の文字が見えるのは、はるかに降って室町末であり、大永四年(一五二四)の平河(千代田区)の本住坊宛の安堵状にある。尊称の御がいつ、なぜ三に変化したか、御田と三田とは同一と考えることに疑問の余地はないのか、荏原郡内である限りまちがいはなさそうであるが、渡辺綱(わたなべのつな)出生地伝説にからんで、足立郡箕田もあることや、勝沼(青梅市)城主に三田氏がいることや、麻布永坂に三田屋敷、三田稲荷があることや、また、目黒区三田がここの三田の続きであったと伝えられることなどを記しておく。
【古文書にみる三田】 三田がどの程度の広がりをもつ村であったかということは不明だが『小田原役帳』(永禄二年・一五五九)によっても、当時の港区は飯倉、阿佐布、三田、今井、白金にわかれていたとみられ、貫高で江戸地域全体の一七パーセントを占めていたことがわかる。役帳で目黒区域の地名は目黒しかなく、三田が伸びていたのかもしれないが、阿佐布、白金の有力村名の間がどうつながれていたか、白金郷阿佐布(善福寺文書)ともいい、麻布領三田村(『新編武蔵風土記稿』)ともいい、またさらに近世初頭南部・東部が上高輪村であったところをみると、そのへんの状況はさだかではない。
【寺社の開創】 なお、中世以前の伝承をもつ寺社についていえば、延喜式内社の薭田神社を称する御田八幡神社は、和銅二年(七〇九)白金に創建、寛弘二年(一〇〇五)に窪三田に転出、慶長十二年(一六〇七)現地へ遷座したといい、旧幹線道路から新街道ぞいに移ったものか。釜鳴、湯立の古式神事を伝え、渡辺綱の氏神であったと称えている。ほかに春日神社(二丁目一三番)は天徳年間(九五七~九六一)、神明宮(一丁目四番)が寛弘二年(一〇〇五)勧請という。同じ寛弘二年で三田小山(窪三田)が出てくること、また、そのそばを芝神明旧地と伝えることには何か理由があるに違いない。
【近世の街の沿革】 近世には北部から、芝南新門前一・二丁目各代地(〔文化三年・一八〇六〕増上寺南方で類焼、防火空地となった古川ばたの代替地、現一丁目一番および二番の各一部)、久保三田町(三田小山のうちで上高輪町の一町、起原不詳で寛文二年〔一六六二〕町奉行・代官両支配。現一丁目一三番および一丁目一一番のうち、以下同じ)、三田久保町(久保三田に同じく三田小山にありながらこれは三田町分、おそらく同様に寛文二年両支配か。現一丁目一一番、一丁目一三番)、三田竜原寺門前(寛文九年〔一六六九〕許可、延享年間〔一七四四~〕町奉行支配)、三田当光寺門前(宝永二年〔一七〇五〕許可、延享二年〔一七四五〕町奉行支配)、三田一~四丁目(寛文二年〔一六六二〕両支配。現二丁目東辺と同一五番南辺、一六番、三丁目一番、三丁目二・三番の各北部、四丁目一番北地先)、神宮寺門前(春日社の門前町屋、起原不詳。現二丁目一三番)。三田常教寺門前(寛文八年〔一六六八〕許可。現二丁目一四番)、芝伊皿子明下町(由来不詳、高輪町のうち、寛文二年〔一六六二〕町方支配で両支配。現二丁目一五~四九番および同地先)、芝田町四~九丁目(起原不詳であるが、東海道開通の慶長六年〔一六〇一〕と同時か、それにごく近い時期に低地水田が開拓されたものであろう。上高輪村に属し寛文二年以後両支配。現三丁目国道一五号線のほぼ両側にあった)、芝通新町(田町成立後三田通り往還への町としてできた。寛文二年町方支配。現三丁目四番)、芝伊皿子町(地名由来は高輪参照。上高輪村のうちに承応二年〔一六五三〕この地名による町屋ができ、寛文二年町方支配。現四丁目一九番、一部は現高輪二丁目)、芝伊皿子台町(伊皿子町に同じ台上の町。現四丁目九番東側、四丁目一八番南側、ほかに高輪一・二丁目)、芝大円寺門前(寛永十八年〔一六四一〕大淵寺が溜池で類焼、移転とともに改称・町屋設立、延享二年〔一七四五〕町奉行支配。現四丁目一九番)、三田功運寺門前(桜田の替地として寛永十七年〔一六四〇〕移転、町屋設立、延享年間町奉支配。現四丁一三番の東辺、一四番の東辺北辺)、三田台町一・二丁目(三田村のうちで台上、古街道に面する集落、寛文二年〔一六六二〕両支配。現四丁目一一番と一二番の東辺、同一〇番、同一八番と一九番の西辺)、三田台町一丁目続赤坂一ッ木町代地(元禄八年〔一六九五〕一ッ木町の一部が用地となり、この地で家作が許された。現四丁目一二番)、三田台裏町(起原不詳、台町の裏の意。現四丁目八番、四丁目九番、ほかに高輪一丁目)、三田泉福院門前(万治二年〔一六五九〕許可。現四丁目八番)、三田随応寺門前(享保十七年〔一七三二〕類焼再建の時許可、延享五年〔一七四八〕町奉行支配。現四丁目六番)、上高輪宝徳寺門前(延宝六年〔一六七八〕狸穴から移転とともに許可、狸穴時代の寛文年間〔一六六一~〕から町方支配。現四丁目八番)、芝伊皿子七軒町(もと上高輪村のうち、伊皿子台町に付属、町名由来不詳、寛文二年〔一六六二〕両支配。両側にわかれ、東側は現四丁目一番の中央東側、西側は現四丁目七番の中央部、東西の言い方が事実と逆)、芝伊皿子寺町(もと上高輪村、寛文二年両支配、伊皿子台町に付属。現四丁目七番)、三田豊岡町(宝永六年〔一七〇九〕御数奇屋御路次の者が町屋敷として受けた。開拓者の姓をとったともいう。正徳三年〔一七一三〕町奉行支配、寺町とも俗称。現五丁目一二番、五丁目一三番)、三田豊岡町続麻布善福寺門前代地(元禄十一年〔一六九八〕善福寺門前東町の一部が新堀用地となり移転、享保十四年〔一七二九〕町家許可。延享二年〔一七四五〕町方支配。現五丁目一三番北部)、麻布永松町(もと麻布領麻布村のうち、宝永六年〔一七〇九〕家作許可、町内北方の古松にちなむ。天徳三年〔一七一三〕町方支配。現五丁目一五番、五丁目一六番西部、高輪一丁目一番北端とその北方先)、麻布南日ヶ窪町代地(不詳、『文政寺社書上』に録上がないが、『御府内沿革図書』には元禄十四年〔一七〇一〕からある。現五丁目一六番)の諸町があった。通観すると、三田小山と台上にやや以前からの集落があって、近世にはいって、東海道ぞい、伊皿子、古川沿岸という順に開けていったことがみられる。
【近世の寺社】 近世の開創、来転の寺院は、相当数にのぼる。一丁目に教誓寺以下四寺、三丁目に智福寺(もと刑場で元和キリシタン殉教地という)以下五寺、四丁目には大増寺・実相寺など二一寺が寛永十二年(一六三五)もしくは同年ころに八丁堀から当地域に集団移転した。(おおむね慶長四年〔一五九九〕と同十六年に八丁堀で開創もしくは同地へ移転して来た寺が多い。)
 四丁目では長運寺(寛永七年〔一六三〇〕飯倉開創、延宝八年〔一六八〇〕現地へ)、常林寺(武蔵大森に開創して三田四国町を経て寛永十二年〔一六三五〕三田二丁目へ、のち明治初年現地へ)、済海寺(元和七年〔一六二一〕開創)など一四寺が開創もしくは来転しており、五丁目に竜源寺(開創不詳、寛文元年〔一六六一〕麻布本村にあり、元禄十一年〔一六九八〕現地へ、元文四年〔一七三九〕まで竜翔院を称した)があった。これでわかるとおり、江戸でも有数の寺院街をなしていた。なお、神社は小女郎あるいは故寿老稲荷といった稲荷神社(一丁目一八番)が延宝六年(一六七八)に飯倉片町あたりから移転してきている。
【武家地】 武家屋敷としては幕末の状態で一丁目に久留米藩有馬家と秋月藩黒田家が上屋敷、大和郡山藩柳沢家が下家敷、二丁目で上屋敷が佐土原藩島津家と相原藩織田家、中屋敷が松山藩久松家、下屋敷が島原藩松平家、会津藩保科家とあり、これらの地域はまったく幕臣邸を含まない純然たる大名邸街をなしていた。三~五丁目は森藩久留島家、麻田藩青木家の上屋敷のほか、奥殿藩大給家、亀山藩形原家など五藩が下屋敷、熊本藩細川家と沼田藩土岐家が町並抱屋敷をもち、ほかには旗本の屋敷もあったが大御番組の与力同心一括給地が四丁目一八・一九番南部に、御書院番与力同心一括給地が五丁目三番~六番と五丁目八番の北辺にあったことが目立っている。
【明治以降の移り変わり】 明治二年(一八六九)に各代地、門前等を合併して町名が整理され(三田松阪町のみは新しい町名)、明治五年(一八七二)には武家屋敷地・寺社地を既存の町に合併したり、新町名を設定したりした。三田綱町は渡辺綱出生伝説のある所で、綱坂、綱の手引坂などの里俗地名にもとづき、三田南寺町、同北寺町は寺院地帯であるためである。
 現四丁目の寺院街は、その後今日まで続いているが、その境内地はしだいに民家・商店などがとくに表側に建てこんできた。現一丁目東部には有馬邸跡に工部省製作寮(海軍兵器製造所、海軍造兵廠と推移)ができ、以後も済生会病院、専売局倉庫、あるいは貯金局、府立第六高女、赤羽小学校と大きい施設となり、二丁目も慶応義塾のほか旧大名邸跡が今日イタリアやオーストリアの大使館や三井倶楽部、大蔵大臣公邸などになっている。一丁目西部や五丁目などは、古川沿岸の工業地帯として中小の企業が集まった。また、三丁目も住宅、小事業所、商店の多い町況が続いた。
 戦災も受けた町域であるが、その後の全体の進行は、いわゆるマンションの増加が著しく、最高級のものからビジネスマンションに至るまで、聖坂付近、桜田通り沿道、台上東側などさながら集合住宅建築の見本市の観がある。また、国道一五号線沿線のビジネスビル化も急ピッチで進みつつあり、なお、変貌をとげていくように見受けられる。