高輪一~四丁目

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 淀橋面丘陵の東端で、南北に続く部分の両側におよんでいる。
 地形上、先史時代遺跡遺物が発見されて当然の地域であるが、学術的な報告はない。北方の伊皿子貝塚と同様の条件下にあり、三・四丁目境の品川駅前道路拡幅のとき(大正末か)おびただしい貝層がみられたという話があるのはいかがであろうか。
【高輪の由来】 歴史時代にはいって『吾妻鏡』文治五年(一一八九)の条の高鼻和太郎をここの人であろうとした(『新編武蔵国風土記稿』)のが最も古いが、語音の類似のみが根拠のようである。確実なのは大永四年(一五二四)、江戸城攻撃の小田原北条軍が防備の上杉軍と会戦したのが、高縄原の合戦として軍記類に記されることであろう。高輪の語源は高所の縄をひっぱったようなまっすぐの道、高縄手道の略といわれ、現在の高輪台上で合戦が行なわれれたとみられている。(この経路を古街道とする伝承がある。)
 もっともほかに、高手突出部の高端の説や白金村の小名玉縄(の池)によるとの説があるが、これらは近代の推定である。
 高輪の範囲は、中世には現在よりも北方に広がり、近世に下高輪だけが高輪になったという。江戸に近いところを上高輪としたとすれば、近世に上・下の別ができたと考えられるが、ともあれ高輪は芝田町、通新町、横新町、伊皿子町、七軒町、明下町等、現在の芝や三田の範囲にまで及んでおり、町屋の発達とともに、芝に含まれ高輪の範囲は縮小してきたものとみられる。
【町屋の成立】 社寺の数も多いが、中世以前の町域内創建を伝えるものは、高輪神社(現二丁目一四~一八番、明応年間〔一四九二~〕創建)のみである。近世の現在町域には細かな町が多い。集落にも至らぬ農家が町屋化したものか。記録に残る古いもので、牛車同業街の車町が寛永十六年(一六三九)の来転である。同十一年に増上寺の普請のため京都の運送業者を呼んだ。のち四谷、金杉などで営業していたのが当地(現二丁目一五~一八番の東部)へ移転させられた。はじめ四丁目まであったが、のち丁目はなくなった。牛町の俗称があり大部分東海道往還に臨み西の片側町だった。伊皿子町(二丁目一六番北部、一七・一八番)は長応寺(二丁目一番あたりにあった)に住んだ明(みん)人王三官をエビス(夷)といい、それに伊皿子(イムベイス)の文字をあてて読んだものとする。この王三官は承応二年(一六五三)に死んでいつか地名になったというのが地元の説明であるが、付近に大仏(おおぼとけ)があっておさらぎといったとも、『更級日記』の一本にいいさらふという地名らしいものが出てくる、そのゆかりともいう。集落の成立そのものは不明である。同台町はその伊皿子町から派生した台上の町の意であろう(二丁目一番北端、一丁目五番西角)。高輪台町(二丁目二・三番各西辺)は起原不詳だが、それから派生されたかと考えられる。高輪小台町(三丁目一四番の一部と二丁目七番北辺)は、万治二年(一六五九)成立と伝える。それより少し前の慶安四年(一六五一)には、白金猿町(三丁目一一番)が増上寺領のうちで成立した(由来は白金台の項参照)。三田北代地町(一丁目五番西辺)と同南代地町(一丁目二〇番南辺)は延宝六年(一六七八)に飯倉片町近くの元地が甲府徳川綱重の屋敷となって、ここへ南北二ヵ所にわけて代地をえた。また、さらに降って宝永六年(一七〇九)の屋敷改めで麻布永松町(一丁目一番北部とその北方路上)が家作許可となった。古来の松の大木にもとづくという。これらの町屋のほかに高輪北町・中町・南町・北横町があって、その起原は不詳とするが、おそらくは起原がわからないというのは、自然発生的な集落から引き続いている町屋であるためではなかろうか。それらの町屋は、二丁目一三番から四丁目二四番にまでおよぶ町域西辺の東海道(現国道一五号線)に面するところにあった。あるいは慶長六年(一六〇一)の東海道開通以前からの海岸集落だったかもしれない。要するに町域は北東部は三田、北部は麻布、西端は白金、そして西南部は二本榎というふうに入り組んだ地域を高輪に整理したことになる。
【二本榎】 このうち二本榎という地域称を冠称する集落起原の町屋はなく、すべて寺院門前である。そしてこの二本榎の上にさらに芝を冠称して芝二本榎といっているが、いわゆる本芝からは三田を隔てて離れ、芝田町、芝伊皿子町、芝車町、芝二本榎と続いて、芝を冠称する。ところが、高輪を台町と北、中、南(および下高輪村)に分断しているところが関心をひくが、その理由は速断できない。二本榎の地名は現一丁目二四番にあった上行寺(昭和三十七年伊勢原に移転)境内の門前町屋との間にあった街道の印(しるし)にもとづくというが、近世には一丁目二一番と二丁目三番のあたりから三丁目一四番のあたりにまでおよんでおり、近代にはこれがその背後や三丁目九番までのもと寺院地・大名邸地にまで広がったものであった。
【門前町屋】 芝二本榎を冠称する門前町屋をもつ寺は、広岳院(承応二年〔一六五三〕西久保から現一丁目二四番に来転の以前から門前町屋はあった)、黄梅院(明暦〔一六五五~〕現一丁目二七番に開創、当時町屋許可)、上行寺(寛永十二年〔一六三五〕伊皿子へ移転し、さらに寛文八年〔一六六八〕ここ一丁目二四番に移ったが、伊皿子のころから門前町屋はあった)、承教寺(承応二年〔一六五三〕に西久保から現二丁目八番に移転、移転以前に町屋はあった)、覚真寺(万治元年〔一六五八〕西久保から移転、その時から門前町屋を建てた)、朗惺寺(八丁堀から現三丁目一四番へ明暦三年〔一六五七〕移転、万治元年〔一六五八〕町家作許可、のち品川区へ転出)、相福寺(三田村から万治元年〔一六五八〕門前町屋とともに現三丁目一四番へ移転、現光福寺前身)で例外なく十七世紀後半の承応・明暦・万治・寛文であり、他の町屋とほぼ同時期か若干早いころに成立したことがわかる。
 また、二本榎以外の門前は三田実相寺(寛永十二年〔一六三五〕八丁堀から来転、享保二十年〔一七三五〕あるいは翌年町屋設立。現一丁目三番と一丁目四番間の路上付近)、芝如来寺(寛永十三年〔一六三五〕寺地受領と同時に設立。現二丁目一五番、二丁目一四番付近)、芝泉岳寺(寛永十八年〔一六四一〕霊南坂上から移転と同時に門前設立。現二丁目一一番あたり)、高輪常光寺(明暦二年〔一六五六〕芝から移転と同時に門前設立。現三丁目一三番あたり)、下高輪保安寺(明暦三年〔一六五七〕西久保から移転、細川家地所を加え正徳三年〔一七一三〕町屋許可。現二丁目二番あたり)、同知将院(明暦二・三年ごろ飯倉から移転、門前町家も同時に移ってきたが正徳三年〔一七三三〕さらに細川家地所を加え町屋許可。現二丁目二番西辺)、同証誠寺(承応二年〔一六五三〕西久保から門前町屋とともに移転、現一丁目二番あたり)、同国昌寺(明暦三年〔一六五七〕飯倉から移転、寛文年中〔一六六一~〕町屋許可。現二丁目三番)、白金猿町妙玄院(寺・門前町家とも起原不詳)などに町屋を作っていた。やはり十七世紀半ば前後の来転・成立が多い。
【はれぼとけ】 門前町屋をもたない寺社もほぼ同時期の来転が多い。円真寺(万治元年〔一六五八〕に移転)、丸山神社(承応二年〔一六五三〕西久保丸山の竜渡から移転。現一丁目二二番)、稲荷神社(古寿老あるいは小女郎稲荷、延宝六年〔一六七八〕現一丁目一八番に移転)、清林寺(本尊が童顔ではれぼったく見えたため、「はれぼとけ」と、いう。開山は寛文八年〔一六六八〕。現二丁目六番)、高野山東京別院(明暦元年〔一六五五〕浅草から移転)、東禅寺(寛永十三年〔一六三六〕溜池の上嶺南坂から移転、幕末の英国公館で、大名墓が多い)など、いずれも寛永~延宝年間(一六二四~一六八〇)の移転・成立である。
【武家地】 武家地については、幕末に熊本藩細川家中屋敷をはじめ、大和小泉藩片桐家、明石藩松平家などの下屋敷二四邸、秋月藩三田家、鹿児島藩島津家などの抱屋敷一一邸がこの町域に構えていた。ほかに幕臣邸地や、鹿児島藩士邸地もあり、現三・四丁目は面積の大部分が屋敷地であった。
 また、幕末まで代官支配の白金村(現一丁目一六~一八番西辺、三丁目一〇・一一番、三丁目一二番南端)、三田村(現一丁目一九番北辺)、今里村・三田村入会(現一丁目二三番南部)、下高輪村(現二丁目一六番中央西辺、二丁目一二番東南部、三丁目一七・一八・二一~二三番の一部、四丁目一番西部)が残っていた。
【明治以降の移り変わり】 明治二年(一八六九)に門前・代地などの町名を整理して付近の町に合併し、あるいは芝二本榎一・二丁目を新設し、そして五年には武家地・寺社地に町名を及ぼしたが、既存の町へ合併したほか、芝二本榎西町、白金丹波町を新設、下高輪の村名を町名とした。当時白金丹波町、白金村、芝二本榎西町、白金猿町など一部荏原郡に属していたものもあった。
 冠称の廃止と再冠を除けば、三田台裏町が昭和二十八年一月一日、三田台町三丁目と改めたのが、大きい変化だった。
 維新後はそのまま長く寺院街・邸宅街の様子を保っていたが、現一丁目二一・二六・二七番と二丁目三~六番の間の通りの両側や、その付近に商店街が形成され、また、明治末から現三丁目一~九番が住宅に細分されたのが大きい変化で、名所泉岳寺門前、町域南部の品川スポーツプラザなどが独特の町況を見せるほか、近年町域のあちこちに中高層のマンションや大規模なホテルがふえたのが、著しい現象である。