白金(しろかね)一~六丁目

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 東流する古川の右岸、北半の一・三・五丁目は古川の小氾濫原とみられる低平な土地で、南半の二・四・六丁目は白金の台上へかかる斜面となっている。白金の由来は、白金台の項でのべる。
 この町でも古いものは神社縁起で、集落の気配が稀薄にもかかわらず、とくに創建は古代とされる。事実関係は別として次にそれを掲げてみる。
【白金氷川神社】 白金氷川神社の創建は、『文政寺社書上』でみると、区内でもきわだって古く、七世紀後半の白鳳年間という。日本武尊(やまとたけるのみこと)がこの丘から大宮氷川神社を遥拝し、日本武尊が残した馬を模したという郷土玩具を出す。ついでは、応徳年中(一〇八四~八七)の雷神社(旧地六丁目四番)で疫病流行のとき氷川明神の神託で勧請したともいう。この祠(ほこら)は近年雷神山の地名のみ残して氷川神社に合祀された。また、鷺森神明(旧地三丁目八一番)は天喜年中(一〇五三~五八)源頼義が祀ったという。稲荷ともいわれるが、これも近年氷川神社に合祀した。このように社の伝承はいずれも古いが、寺院は例外なく近世の草創もしくは移転で、かなり遅くまで原野が多かった。
【町屋の成立】 集落の成立は、近世も十七世紀後半以後のことであって、江戸周辺拡大にともない、周辺が漸次町屋化する過程でみられるようになった。中世あたりは古川の氾濫で集落が途絶していたのかもしれない。
 白金台町はもと白金村の増上寺領のうちであったが、相模へ向かう街道にもかかわらず、夕方から辻斬り・追剥ぎの出る場所だったので、増上寺から願って町屋をおくことになり、慶安四年(一六五一)に一~一一丁目を起こした。今日の二丁目南辺に一・二丁目があった。この道は現二丁目五番から清正公前で玉名橋を渡り天神坂を登り高輪台上の古道に合し、また、玉名橋から二丁目四番の西辺ぞいの小路が樹木谷を通って現一丁目中央を麻布方向へ北上していた。麻布本村でいう古街道はこれに当たるようである。
【町屋の拡大】 元禄十~十三年(一六九七~一七〇〇)以降、現一丁目二八番西端やそれまで麻布村新堀向こうと呼ばれた現一・三丁目北辺、五丁目東北端あたりに幕府役人への町屋給地が行なわれはじめ元禄十四年には白金報恩寺門前や白金神明社地門前が成立、同十七年には麻布谷町が現一丁目二八番東部に代地を受け、以後現一丁目三番北端に、麻布永坂町が宝永六年(一七〇九)に現一丁目二八番西端に、三田老増町が宝永年中(一七〇四~)に成立した。町名を前者は町内の古松から、後者は名主の老沼・増島の名からとったという。そして現一~三丁目北辺等は幕臣給地から、降って時期不明ではあるが、三田亀塚の代地二ヵ所と西久保天徳寺領屋敷三ヵ所の町屋を合わせて田島町としたという。田の中に島のようにある町という町名起原の説は新しく『麻布区史』のみが紹介している。このあたり古川南岸の沖積氾濫原が今日の住居表示に至るまで麻布と目されたことを示している(南麻布の項参照)。これらの町屋は正徳三年(一七一三)、門前町屋は延享二年(一七四五)に町奉行支配下にはいる。
【寺院の開創】 寺院については、専心寺(二丁目一番、寛永元年〔一六二四〕開山遷化)、立行寺(二丁目二番、麻布市兵衛町から寛文八年〔一六六八〕来転、大久保彦左衛門菩提寺)、松秀寺(宝暦二年〔一七五二〕下高井戸から来転、日限(ひぎり)地蔵所在)、西光寺(四丁目三番、寛永二年〔一六二五〕麻布桜田に開創後移転)、吉祥院(寛延三年〔一七五〇〕武州松山から来転、昭和二十年現高輪へ移転)などであるので、おおむね町屋に準じて十七世紀後半の創建であることがわかる。
【武家地】 武家地としては、幕末の状態でみると大名邸は豊後杵築藩松平家中屋敷(現三丁目)を除いてはすべて下屋敷か抱屋敷で、周縁地の状況を現わしている。上ノ山藩、肥前鹿島藩、米沢藩、桑名藩、浜田藩など合計一五藩の邸があった。また、幕臣邸地は一般旗本のほか、一括給地されていたのが黒鍬組と西の丸御書院与力同心たちであった。
【白金村と今里村】 しかし明治に至るまで、町域のほとんど半分近い面積が、五・六丁目を中心に村地として残り、白金村および白金村・今里村の入会地となっていた。中世には白金村は古川北岸の阿佐布をもおおっていたと考えられるが、やがて麻布が白金と別個になり古川南岸までを称するようになり、また、内部から今里村が分離した。これは元禄八年(一六九五)検地以来と推測され、今里は新たに開墾された里の意かという。もっとも白金・今里の村界は入会地で確定しがたい。
【明治以降の移り変わり】 明治二年(一八六九)に代地は隣接の老増町へ合併、二つの門前町は白金錦町(蜀江坂により蜀江の錦にちなんだものか)と改称、五年には白金志田町(現一丁目東半)を旧武家地に設定したが、その後も、荏原郡下に白金村、今里村、白金錦町、白金上三光町、同下三光町を残し、また、古川河川敷の八郎右衛門新田に麻布広尾町枝郷を設定した。明治十二年、錦町や上下三光町は白金村へ合併されたが、明治二十二年(一八八九)この白金村は芝区に編入され、二十四年にはその部分を白金三光町とした。三光は三光坂に由来するとするが、その三光とは仏具の三鈷からきた松ゆえとも、日月星の三光とも、ホタルの名所のゆえともいう。
 なお、白金・今里両村には上三光、下三光、名光(なこう(めいこう))、東名光、西名光、卒古台、松久保、雷神下、沖島、桑原坂、蜀江台、長者丸、土橋、出口窪、赤松下などの小名が知られているが、その一部は現白金台にもかかっていると思われる。
 明治もなかばまでは、原野田畑が多かったが、その後、宅地化し、一・三・五丁目には中小の工場ができ始め、小住宅がふえ、古川沿岸工業地帯の一翼を形成した。二・四・六丁目の台地が邸宅化したのと対照的な変化であるが、聖心女学校や北里研究所のような文教的な施設もあった。奇数偶数丁目間の道の新設は大正初年であったと考えられる。
 戦後は、台地上に高級なマンションが現われ、一・二丁目東辺に桜田通りが拡幅あるいは新設されるなどの変化があり、一帯に建築物は更新されてきているが、奇数丁目と偶数丁目の町況の相違は今日も続いて区内の代表的な二様の町を形成している。
 なお、住居表示を行なって現町域町況となったのは、昭和四十四年(一九六九)一月一日であった。