白金(しろかね)台一~五丁目

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 一~三丁目間の低地のほかは、おおむね台地上にあって町名にそむかない。
【白金の由来】 白金の名は、現五丁目二一番の国立科学博物館付属自然教育園内にみられる自然地形を利用し、堀をめぐらし土塁を築いた本格的な城塞式の館跡から始まったものと伝承される。その城塞は南朝の雑色(ぞうしき)が応永年間(一三九四~一四二八)に移り住んだもので、本名は柳下上総介(やぎしたかずさのすけ)だが白金の長者とあだ名されたという。慶長(一五九六~)のころ白銀を掘り出したが衆議をもって採掘を中止してから地名となったというのは、明らかに付会で、『北条役帳』にすでに「白銀」「江戸銀」とみえている。その白銀を長者が埋めておいたものとするのは、これをさらに合理化するための付会ではないか。なお、白金長者の子息は青山にいた黄金の長者の娘とともに、筓橋伝説を構成する人物ともなっている(西麻布の項参照)。
【町屋】 現一・三丁目と四・五丁目間の目黒通り両側に続いていた町屋は一~一一丁目にわかれていたが、これは、増上寺領だったころの通行路だったが、白金の項に述べた理由で町屋を設定した。十七世紀半ばのことである。この名主に前記柳下上総介の子孫がなったというのは、名主の自称とも考えられなくはないが、続いていたとしても不自然ではあるまい。
 また、町屋はこのほか二丁目二六番西辺に白金猿町(台町同様の理由で慶安四年〔一六五一〕増上寺領に設立)と瑞聖寺門前(延宝六年〔一六七八〕設立)があった。猿町は白金台町を去るの意とも、帝釈天があるゆえともいう。なお、白金村の称は中世には阿佐布をもおおう郷名(元麻布の項参照)で呼ばれたらしいが、慶長十二年(一六〇七)には、飯倉郷阿佐布となっている(埼玉県光西寺蔵画賛)。そして、元禄八年(一六九五)以来、白金村のうちからその南部に今里村が分離したらしいが、目黒通り南側より以北は両村入会のまま幕末に及んでいる。
【武家地】 この入会地と今里村はほとんどは畑、一部は田と『御府内沿革図書』に表示されているが、しかし町域の大部分は、自然教育園の部分の高松藩松平家の下屋敷をはじめとして、大名下屋敷、抱屋敷(とくに抱屋敷が多い)であり、幕末には三田(さんだ)藩、松本藩、河越藩、久留米藩、宇土藩、森藩、八戸(はちのへ)藩、佐伯(さえぎ)藩、小野藩、丸亀藩、福江藩、大村藩、徳島藩、西尾藩(これのみ中屋敷)などがみえる。そして、西の丸書院与力同心一括地のほかは、旗本などの屋敷もあった。
【寺社】 寺社をみると、忍願寺(一丁目一番、承応元年〔一六五二〕三田寺町から来転)、覚林寺(一丁目一番、寛永年間〔一六二四~〕開創、俗に清正公)、妙円寺(三丁目一七番、開山元和六年〔一六二〇〕遷化)、瑞聖寺(三丁目二番、寛文十年〔一六七〇〕特命で開創、黄檗宗で明(みん)様式の本堂)等があり、白金氷川神社兼摂の古地老稲荷(一丁目一番)。真先稲荷(二丁目二六番)があったがいずれも創建不詳である。
【明治以降の移り変わり】 明治二年(一八六九)瑞聖寺門前を台町六丁目に合併。同五年台町の丁目を一・二丁目に整理し、また、寺社地・武家地へ町村名を及ぼした。このとき現二丁目西辺の武家地は二本榎西町となった。この地はいったいに荏原郡に属していたが、明治十一年に台町・猿町は芝区が成立した際にその町とし、他は荏原郡のまま明治十一年に今里村は白金村に合併、その白金村は明治二十二年に芝区へ編入、二十四年にその編入地域のうち旧今里村の字今里玉縄を白金今里町としたのだった。
 明治以後、町域は徐々に住宅地として市街化されていったが、一丁目の海軍埋葬地、明治学院の設立、五丁目の現自然教育園の海軍火薬庫、海軍大学校、朝香宮邸などへの推移、四丁目の伝染病研究所(現東大医科学研、国立公衆衛生院)の設置などが目立つ現象で、大規模邸宅もみられた。
 現三・四丁目の目黒通りぞいの商店街化は戦前からの現象であるが、今日もその傾向は進み、また、近年は国道一号である桜田通りに面する二丁目西辺のビル化も進行してきた。大規模の料亭やホテルもできたが、その他の地域が住宅街であることは、根本的には変わっていない。住居表示は昭和四十四年(一九六九)一月一日である。