麻布狸穴町の西に隣接し、同様の地形にある。現町域の西辺路上や麻布十番一丁目一・四番に町屋があった。
【永坂の由来】 現町域の西辺の大きな坂は戦後の拡大だが、その西端がもとの永坂で、その上下に坂の一部が六本木五丁目に含まれて残っている。〝長い坂〟の意が町名の起こりであるが、長坂氏の居住地があったのが由来という説もある。
【麻布永坂と飯倉永坂】 近世には、麻布永坂町と飯倉永坂町があり入り組んでいたが、飯倉永坂町のほうがやや北寄りが多かった。麻布永坂町は元来麻布領麻布村のうちで、寛永六年(一六二九)屋敷改め家作御免となり、その後正徳三年(一七二一)町方支配となり、地所は代官支配であったが一部は天徳寺領で、そこは享保十六年(一七三一)に町家作を許可された。町内が道路敷となって下谷、神田、深川に代地を受けたこともある。
飯倉永坂町は、飯倉集落と起原を同じくするといい(東麻布の項参照)、甲府屋敷ができたとき、用地にとられて代地として受けたらしく二ヵ所にわかれていた。北は現在の永坂町八番地先あたり、南は六本木五丁目一二番西端あたりであった。
【寺社と門前町屋】 寺院に大長寺(寛永七年〔一六三〇〕開創)と光照寺があり、両寺とも門前町屋をもっていたが、大長寺門前町屋は一時的な存在であり、光照寺は寛永四年(一六二七)に三河から江戸へ移った寺で、同年町屋を許可され、延享五年(一七四八)に町奉行支配となった。いずれも現在の町域西地先の路上になった部分だが、寺は昭和四十年(一九六五)に府中市などへ移転した。
三田稲荷(寛文三年〔一六六三〕甲府宰相徳川綱重が、のちの将軍家宣となった愛児成長のため三田屋敷に勧請したもので、産土神の根津権現神職が奉仕した。甲府屋敷がなくなってのちも残り、将軍職を継いだので世継稲荷、また高い石段の上にあったので高稲荷とも称した)にも寛延二年(一七四九)から寛政十年(一七九八)まで門前町屋があった。三田稲荷は、のち永坂更科の邸内社となって現存する。
武家地は、近世中期に将軍家宣の父、徳川綱重の甲府屋敷があり、そこが廃されて幕末には町域西半が浜田藩松平家の下屋敷となっており、光照寺裏や三田稲荷の南に計四家ほどの武家屋敷があった。
【明治以降の移り変わり】 維新後の明治二年(一八六九)に飯倉永坂町、光照寺門前も麻布永坂町に名称統一、同五年には武家地・寺地をも合併し、西町屋だった部分は店舗がしだいに小住宅に変わったが、町域東部は大邸宅の町並を保っていた。
戦災も受けたが、大邸宅の部分は今日も変わりがない。戦後港区で急速に減少した邸宅街のおもかげをこんにちも残しているが、昭和四十年初頭町域東部の道路開通が、この部分の町況をまったく変えてしまった。
なお、明治四十四年(一九一一)から昭和二十二年(一九四七)までは、麻布の冠称をつけていない。