六本木一~七丁目

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 溜池谷と古川谷の間の武蔵野台地端淀橋面に属する丘脈で、複雑な樹枝状に開析されている。
 外苑東通りがその脊梁で、溜池方向からくる谷町の谷、それより狭長な古川谷支谷としての吉野川があった日ヶ窪の谷、また、町域西辺南部の長坂の谷、北部四丁目あたりの小傾斜・七丁目西辺へはいるゆるやかな傾斜などがある。
 史実とは厳しく区別しなければならないが、無視することができない伝承がある。
【竹千代稲荷】 現在の鳥居坂上に和銅五年(七一二)竹千代稲荷が創建されたといい、地名神名のいずれが先か不明だがそこを竹千代ヶ丘といった。稲荷に人名がつくのは巫覡の関係かといわれるが七一二年は奈良奠都(てんと)の翌々年で、関東はまだ先史時代である。別説に、和銅から伝来の慈覚大師の八咫(やた)の神鏡をもって弘仁十三年(八二二)の創建といい、式内社の稗田神社と称する。中世の弘安二年(一二七九)に鳥羽氏が社殿再建、近世に入って、三代将軍家光の幼名と同じことをはばかり竹長稲荷と文字を変え竹町とも書いた。
【朝日神社】 ついで芋洗坂の朝日神社は、はじめ弁財天を祀って天慶年間(九三八~九四七)の草創といい、織田信長の室妙心尼が長者丸(南青山五丁目)でえた稲荷神像を合祀して明和年間(一七六四~七二)から日ヶ窪稲荷と改称した。現称となったのは近年である。社祠も付近に住民がなければ維持されないであろうが、集落にかんしても中世以前は伝承である。
【久国神社】 それにつぐものは、永禄三年(一五六〇)に来転した久国神社(現二丁目一番、寛正六年〔一四六五〕太田道灌勧請という)がある。すでに小田原北条氏治下で芝浦や善福寺の文書が知られ一ッ木村の開発も伝えられるころである。また、現在の外苑東通りが尾根伝いの街道であったことを諸書が指摘しており、家康の江戸入り経路でもあったという。状況証拠から確度は高いが、ただ、麻布本村を南方から古街道が通過していた(南麻布の項参照)という伝承や、一本松・筓橋の交通路伝説、赤坂・虎ノ門の町界付近の榎坂が渡河地点だったという推定は、この六本木丘脈上の古街道の存在とは必ずしも一致しない。時代的変化があったものか。
【竜土町の起原】 元和年間(一六一五~二四)以降に、芝愛宕下や西久保あたりにいた漁師が引移って現七丁目六番あたりの麻布竜土町の起原をなした(正徳三年〔一七一三〕町方支配)というのが事実とすれば、覇都江戸の市街変化の影響であったろう。ただ、地名としては猟人(かりうど)のかの字の脱落とか竜が下ったとかいい、流道の文字をあてたりするので確かとはいえない。
 元和六年(一六二〇)八月起原と伝える今井谷村は、現二丁目一番東部と二丁目二番あたりの集落で、米良太左衛門が名主となり開拓したものという(米良家は明治に離散したという『麻布区史』『港区史』の記事は誤りで現存される稀有の家系である。「谷町に過ぎたるものは米良の蔵」といわれたほどの分限であった)。
 元和末から寛永にはいって寺院が建てられる。道源寺(一丁目三番)は、開創不詳だが、開山死去は寛永元年(一六二四)で、創建はそれよりはさらにさかのぼる。竜土の長徳寺(維新後廃絶)が元和八年(一六二二)に創建、翌年長昌寺(大正二年渋谷へ移転)の竜土移転は、集落がそれ以前からあったとされるだけに納得しやすい。
 寛永元年に竜土の教運寺、北日ヶ窪の長徳寺などが創建、二、三年のちに今井寺町を構成する真性寺ほか三寺が創建され、同六年に円林寺が移転してくる。これは江戸郊外の寺院街形成としては早期に属する。付近の今井村の集落はのちに移転してくるが、すでに別の人家があったものか。寺院には門前町屋でなくても、町屋に隣接するのが通例である。
 寛永三年には、今日の六本木交差点近くで将軍秀忠夫人の火葬が行なわれた。当時、浅府野といい増上寺から一・八キロを運んで葬送するほどの原野だった。その三回忌を勤めた功で四人の僧が寛永六年十一月七日当地に土地をえた。もと西久保や増上寺にいた僧たちであったが、灰塚のところに深広寺、煙下に光専寺、正信寺、教善寺が建った。彼らは、自力で開拓し堂宇を建てたが、芝原の地で近辺人家遠隔のため通行人が難渋するし、府下の繁栄にもなると各門前左右に家作を願って許され、寛永年間から延宝六年(一六七八)までに四ヵ寺で計三十余軒の町屋を建てた。六本木中心市街の起原である。
 また、寛永三年(一六二六)には崇厳寺が現三丁目一四番の六本木共同墓地となったところに創建されるが、ここにはそれ以前から〝田中の閻魔〟と呼ばれる閻魔堂があり戦災まで続いていた。低地で水田の中にあったためか。
 万治二年(一六五九)西光寺(一丁目三番)が門前町屋を起こし、のちの宝永二年(一七〇五)にそれを再興したという。
 天祖神社(七丁目七番)は天和年間(一六八一~八四)に飯倉城山から移転してきた。当時は、神明社である。元禄八年(一六九五)に至って湖雲寺(四丁目一番)が四谷仲殿町から移ってきたが、その門前町屋は、寺の来転以前にもあったという。
【簞笥町】 寛永十年(一六三三)には、その二年前に新設されていた幕府御簞笥組の同心が、現一丁目三番と三丁目一番先の首都高速・谷町インター下あたりに屋敷を受けた。町人を置く許しをえたというが、正式の町屋ではなく寛文八年(一六六八)には表の店は垣をさせられた。のち元禄九年(一六九六)に御簞笥町として正式に成立、代官支配となった(町方支配は正徳三年・一七一三)。また、起原は明瞭でないが、五丁目一三番北端の永坂百姓町屋は、寛永年間以来のものという(正徳三年町方支配)。
【市兵衛町】 承応三年(一六五四)になると、虎ノ門とその付近の堀の建設のため立退きを命ぜられ、やむを得ずやってきたといわれる今井村の集落が一~三丁目にかけて散在することになるが、そのうち今井台町(のち名主の名をとって市兵衛町)と谷町は、寛文十二年(一六七二)に年貢割当不満の訴訟を起こし、年貢諸役を他の今井諸町と別個にした。市兵衛町と改称した元禄八年(一六九五)の翌年、内藤新宿に拝領町屋があった御留守居同心が、その西南へ代地を受けて移り、いつか麻布坂江町と称するようになったが、町名由来は不詳である。
 この町域の町屋は、ほかに起原不詳の麻布竜土六本木町(五丁目二番)、麻布竜土坂口町(六丁目一番南部)、飯倉六本木町(六丁目七番西北部)、麻布北日ヶ窪町(五・六丁目間に断続的に存在)などがあった。朝日稲荷の存在から考えて、主街道ぞいの麻布竜土六本木町は別としても、相当古い村落にその起原があると推測される。
【六本木の由来】 六本木の地名起原については、古く松の木が六本あったと言い伝えるが、いつどこにともわからないとする『文政町方書上』の沿革記述を信頼するほかなく、五丁目五番の東北角にあったいちょうや、三丁目一五番の南西角にあった六本幹のいちょうによるというのは近年の話である。上杉、朽木、高木、青木、片桐、一柳の姓、あるいは六万(ろっぽう)の男伊達(おとこだて)の六方気であろうかというのは、臆説として述べられている(『遊歴雑記』)に過ぎず、秀忠夫人荼毘(だび)のため梵語の旡方気(平穏の場所)の意であるというのも最近の説であろう。
【お前麻布で気が知れぬ】 「お前麻布で気が知れぬ」とは、木が知れぬのかけことばである。また、「気が知れぬ」は「黄が知れぬ」にかけられ、目黒・白金・赤坂・青山とあって、五色の黄だけがこのへんのはずで足りないからとか、麻布の黄色ははっきりしないからとか、花屋が菊の黄を切り違えたからとか、さまざまにいう。
【芋洗坂と饂飩坂】 坂口町は、芋洗坂の下り口ゆえ、というからその意味からも、芋洗坂は五・六丁目間から六丁目一・七番間へ曲がって登る坂とするのが正しい。饂飩(うどん)坂は五丁目一・二番間で、このあたりの道は芋洗坂が古く、その朝日神社前から古街道へ出る道は五丁目二・三番間で元禄ごろにみえ、遅れて五丁目一・二番間の饂飩坂ができた。五丁目一番と六丁目一番間は大正以後の道なので、これを芋洗坂とするのは近年の誤りが習慣となったものである。
【日ヶ窪】 日ヶ窪は、日当たりのよい窪地という説がほぼ妥当であろうが、土人形を掘り出した雛窪(ひなくぼ)(大田南畝)という説もあった。
【武家地】 以上の町屋・寺社地のほかは、大名邸地と幕臣邸地によって占められていた。幕末には御先手与力同心が一丁目四番、御書院与力同心が三丁目五番、西の丸書院与力同心が六丁目二・五番あたりに各一括給地をもち、大名屋敷として八戸藩南部家、高富藩本庄家など一三藩が上屋敷、陸奥中村藩相馬家、下館藩石川家など五藩が中屋敷、浜田藩松平家、松代藩真田家など八藩が、下屋敷をそれぞれこの町域に構えていた。
【明治以降の移り変わり】 明治二年(一八五九)に町屋は麻布谷町、同市兵衛町、同六本木町、同南・北日ヶ窪町、同竜土町などに整理され(一部に材木町、桜田町、永坂町、飯倉片町、宮村町、原宿村飛地を含む)、同三年には簞笥町が復活した。
 同五年には、武家地を既存町域に合併し、また、麻布仲之町(幕末低地の里俗称)、同三河台町(近世初期の松平三河守邸があったための里俗称)、同鳥居坂町、同東鳥居坂町(大名邸からきた坂名による)、麻布霞町(桜田神社の旧名霞山稲荷による)を新設した。
 町況は、戦前までは地味で、人通りもまばらだったという。市区改正の道路が、東北の溜地から西南の霞町へ通ったのが、明治時代の大きな変化だった。新竜土町が竜土町から分離したのは明治六年で、そこにいわゆる麻布の三連隊ができた。一帯に邸宅が多く、東洋英和女学院、府立第三高女の存在が目立った。
 建物疎開と戦災で、残ったところもあるが、ほとんど全域にわたって被害を受けた。現一丁目六番に住み、炎上の模様を詳細に記録した『永井荷風日記』が著名である。
 戦後、歩兵三連隊跡がハーディーバラックスとなり、占領米軍の駐留で特殊なふん囲気があったが、市三(いちみ)坂・霞坂間道路の拡幅とともに、俳優座の開場が六本木変化の先駆となり、昭和三十年代の半ばから、六本木族の名が知られた。この前後から三~七丁目の交差点を中心として、深夜まで活動する新しい街の特色が明らかとなり、麻布の六本木から東京の六本木、さらに飛躍して世界の六本木となって外国の高級商店やレストランが集まってきた。高級マンションもぞくぞく建設され、ビジネスビルもふえ、クリエイターと呼ばれる新職業人などが集まる反面、繁華街をはずれると静かな住宅・邸宅街の趣きを残し、複雑で重層的な機能と景観をもつ地域を形成した。六丁目西端テレビ朝日の町況への影響も大きい。
 地形上とくに坂が多いところで、既述のもののほか道源寺坂、南部坂(「忠臣蔵」に現われる)、於多福坂、潮見坂、御組坂、行合坂、不動坂、寄席坂、丹波谷坂などがある。
 住居表示が行なわれて、現区画町名となったのは、昭和四十二年(一九六七)七月一日であった。