南麻布一~五丁目

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 西方は笄川、南方東方を古川の谷に囲まれ、北は元麻布の高台で、南へ鈍く突出した傾斜面にある。その斜面にも三丁目中央部の谷や一丁目西部には平地があるなど単純ではない。
【本村町貝塚】 三丁目一一・一二番には、都心に珍しい縄文前期の貝塚がみられ、旧町名で本村町貝塚と呼ぶ。現在より一〇メートルは高かった当時の海面のため、五、六千年前には、この台地端の傾斜近くまで海が入りこみ、古川橋へんないし笄川へんまで狭い峡湾をなしていたと推定されている。
【経基伝説】 海はそれ以後徐々に退くが、有史時代も中世まで伝承以外の記録はない。三丁目一〇番東辺中央にあった東福寺七仏薬師は、源経基の守り本尊というが、西麻布笄橋、元麻布一本松とともに麻布に多い経基伝説のひとつで、貴種流離譚の面影もあるそれらの話にゆかりがある。
 そして町内に新町という場所があるのは、その町の東方裏を南北に奥州街道が通っていたのが、近世の寛文元年(一六六一)に仙台藩下屋敷に囲いこまれたため、西へ移動して新たに道筋を作ってできた町であるから、と麻布本村町の『文政書上』は説明している。この街道は前記経基の道筋とは直交し、高輪、三田、飯倉と通じた古街道とのかかわりは明瞭でないが、あるいは古代通路の麻布横断と、中世の三田・飯倉通路との中間に、この麻布本村を南北に過ぎる交通路があったものとみるべきかもしれない。近世の新町は、現三丁目二・三番と一〇番北部と四・五・九番間の両側にあった町で、新町となる以前は三丁目三番中央あたりを南北に行く道があったことになる。
【本村の集落】 本村町の町屋は、近世でみると二八のブロックに分かれ、その群ごとに小名(こな)があった。
 谷戸(やと)(現在の元麻布)、上之町(うえのまち)(元麻布のほか当町域三丁目一番北辺)、新町(前述のとおり薬園坂上部の左右で仲町ともいい一一のブロック)、西之台(三丁目六・九番北辺と五番東南角の三ブロック。富士見御殿への道筋で御殿新道とも)、中南(二丁目一四番西端、三丁目二一番中央の二ブロック。新堀端とも)、大南町(二丁目九~一七番付近、二丁目九番南辺西半、二丁目一四番北辺西部の四ブロック。南仲町、絶江とも)。
 おそらく中世以前の自然発生的な集落に由来するため多くのブロックに分かれ、また起原がより古いために、麻布のうちでも本村を唱えていたのであろう。一個の村落として内部に小名をもっていたのは、分化するまでに発達した小市街だったと考えさせる。小名が必要なくらいの広がりをもつ集落は、周辺にもあまり例がない。
 他の町屋をみると、一丁目六番北部の善福寺門前東町は、元麻布善福寺の門前町屋で元町の東方に当たったからで、元町同様慶安五年(一六五二)町屋許可、延享二年(一七四五)町奉行支配となった。一部が元禄十一年(一六九八)に新堀開削用地となり、翌年三田魚籃(ぎょらん)下に代地をえている。
【古川町】 三田古川町(二丁目五番)はもと三田村の石高のうちであった百姓地で、延宝(一六七三~八一)のころまで古川の左岸にあって古川を町名にした。おそらく古川の流路が不安定で、右岸と一体とみられていたためであろう。
 ここで古川は東へ膨らんでおり、もと右岸にあったのかもしれない。南麻布のなかでも、この付近はわずかに河川の堆積低地をなしている。南麻布より南の麻布田島町のように古川右岸の白金あるいは三田に地続きにありながら麻布を称した所もあるのは逆のケースで、やはり流路の変化がもたらした地名の動きであろう。
 麻布竜土町代地三田古川町(一丁目六番南部)は、元禄十二年(一六九九)麻布竜土町(現六本木)の道路拡張の代地で、元地同様に正徳三年(一七一三)町方支配となり、麻布古川町(一丁目六番南部)は、本村のうちが元禄十一年(一六九八)白銀御殿用地となり、三田村の細流のそばに代地を受けた。この南麻布諸町の町況については、釜無横丁のエピソードや落語に登場する小言幸兵衛や絶江木蓮寺が、その性質を表わしていると思われる。
【広尾】 麻布広尾町東部(四丁目五番西北部と五丁目七番南西角)は、古来阿左布村の小名(こな)で樋籠と書いたという。寛文八年(一六六八)に家作改めがあり、正徳三年(一七一三)に町方支配となったころから広尾と書いたという。また、渋谷広尾町(四丁目一五番南辺、一六番)は寛文八年町家作許可で二二ヵ所に分かれていた集落のひとつで、享保年間(一七一六~三六)ごろ渋谷村樋龍を改めたと伝える。町方支配も同様正徳三年だった。
 このほか幕末まで、二丁目二七番の一部、三丁目九番の西部、一一番の西部、三丁目五・一二番の各一部などに代官支配の麻布村百姓地、五丁目一〇・一四・一五番の一部に渋谷村百姓地が残った。これらは畑地もしくは荒蕪地であったものか。
【寺社の開創】 近世の現町域で、現存する寺社をみると、一丁目六番に善福寺中の三ヵ寺である福泉寺(永禄元年〔一五五八〕鎌倉から来転)、浄広寺(寛永十七年〔一六四〇〕開創)、称名寺(延宝年間〔一六七三~〕開創)がある。二・三丁目の接するあたりの一群の寺社で現存のものは浄善寺(米沢から麻布今井村を経て承応三年〔一六五四〕麻布新町へ、寛文元年〔一六六一〕現地の南仲町へ移転)、曹渓寺(今井村から承応二年〔一六五三〕現地へ、開山の名である絶江が付近の地名となった。藤森天山、寺坂吉右衛門の墓がある)、明称寺(慶長十四年〔一六〇九〕開創、芝宇田川横丁から寛文三年〔一六六三〕麻布日ヶ窪に移り、さらに天和三年〔一六八三〕現地へ、本堂は麻布薬園のものか)、遍照寺(霞が関から寛永四年〔一六二七〕六本木へ移り、さらに寛文五年〔一六六五〕現地へ、昭和十五年〔一九四〇〕に隣接の浄林寺〔寛永十一年・一六三四開創〕と合併)等がある。
 また、少し離れて台上に天真寺(寛文元年〔一六六一〕筑前大名黒田氏開基、松平不昧と関係が深く、重文十六羅漢画像等を所蔵)、古川端に光林寺(延宝六年〔一六七八〕麻布市兵衛町に開創、丸亀藩主開基、元禄七年〔一六九四〕現地へ移転)、天現寺(享保四年〔一七一九〕小日向の普明寺を移転・改称。本尊毘沙門天は平安時代後期の秀作)等があった。
【冨士見稲荷】 神社は富士見稲荷が、三枝摂津守の屋敷時代から存在したが、富士見御殿建設で移したところ、異変があったため戻して御殿鎮守とした。屋敷神としての地縁的性格を示し、勧請不詳もむしろ本来的である。別当名から千蔵寺稲荷ともいった。その鎮座地は現四丁目五番郵政宿舎付近で、現在の広尾稲荷神社(四丁目五番六一号)では明治四十二年(一九〇九)に富士見稲荷を現称に変えたというが、位置の移動合祀があったものか。現ドイツ大使館(四丁目五番一〇号)内の稲荷祠を位置的に富士見稲荷の後身とみる考えもあった。
【武家地】 武家地は、幕末期に大名邸として土佐高知新田藩山内家、備中足守藩木下家の各上屋敷のほか、下館藩、飯野藩など一六藩の下屋敷あるいは抱屋敷があって、郊外的な景況であったに違いない。これらのうち、盛岡藩の下屋敷は南辺に南部坂の名を残し、現在の有栖川公園にその庭園の面影がある。幕臣邸は一丁目四・五・八・九・一五番の各東側、三丁目五番東南部、四丁目三・四・九番などに多かった。
【麻布薬園と白金御殿】 近世の町域で目立つ存在は麻布薬園と白銀御殿で、前者は今も薬園坂の名を三丁目一〇・一三番間に残す。この坂以西一万六千坪に寛永七年(一六三〇)以来幕府薬草栽培所があった。後者の白銀御殿(中世郷名にみるようにこの地まで白金といった。のち麻布御殿、富士見御殿とも)は元禄十一年(一六九八)落成、将軍綱吉が薬園内御花畠(薬園建設後江戸城二の丸から移された。三千二百余坪)に建設させた別荘である。その建設のため一ノ橋から上流四ノ橋まで船入りとした。(一~四ノ橋の建架命名もこのときのことか。)元禄十四年にはこの大半が焼失、残りはのちに増上寺内真乗院の伽藍となったという。薬園は頁享六年(一六八四)白銀御殿拡張のため大部分が小石川薬園に移され、こちらは正徳三年(一七一三)にまったく廃された。
【明治以降の移り変わり】 明治二年(一八六九)に町地の合併整理、同五年に武家地・寺社地への町名設定で東町、竹谷町、本村町、新堀町、富士見町、広尾町、新笄町、盛岡町となり(新笄町以外は明治四十四年~昭和二十二年を除き、すべて麻布を冠称)、ほかにのち加わったところに渋谷上広尾町、下渋谷村、麻布本村があり、河川敷は八郎右衛門新田、麻布広尾町枝郷、新広尾町一~三丁目と変遷した。
 近代には、西部低地を中心に古川沿岸に工場が、他の低凹地に小住宅が、台地斜面上には市内でも屈指の大邸宅街が出現した。大正、昭和(戦前)で氏名の地図に残るものだけでも一八家を数える。戦後は財産税物納などで邸宅街も様変わりとなり、個人邸宅の規模が縮小する一方、各国公館が戦前以上に増加した。そして高級マンションの建設が今も各所に進行し、豪華なものも少なくない。
 住居表示は、昭和四十一年(一九六六)四月一日施行、古川右岸の麻布新広尾町一~三丁目と麻布田島町は、近世以来麻布とされ、明治十一年(一八七八)以後も麻布区であったが、三田・白金に合併されて古川がその境界となった。