西麻布一~四丁目

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 麻布台地の西、笄川の谷を東西にわかれてはさむ町域である。
【笄橋の由来と経基伝説】 先史時代には一丁目の町域で貝塚があったような報告もあるが、宅地化して調査などもないまま消滅した模様である。古代には、伝説として笄橋(四丁目三番一〇号東北先、今マンホールがその跡)に、源経基が承平八年(九三八)、あわてて都へ逃れる途中、ここを過ぎたという説話が『江戸砂子』に残っている。経基は前司広雄という者に行手を阻まれて困り、刀の笄を与えて当時竜川といった川を通過したとされるが、この説話にちなんでそこに架けられた橋を経基橋といった。先祖の名をはばかって康平六年(一〇六三)に源頼義が現在の橋名に改めたという。
 これは、もちろん単なる伝説であって、史実を反映したとはいえないまでも、付近に源経基の伝承が多いこととあいまって、古代交通路を想定させる状況があったのではあるまいか。
【笄橋の由来―異説】 この説話には異説もあって、『故郷帰りの江戸雀』では目黒不動の霊験譚となっている。これは青山の黄金の長者の娘が、白金の長者の息子に見染められ、その逢引き中、娘に横恋慕した者の霊が鬼と化して襲ったとき、刀の笄の彫り物が不動となって鬼を退け、笄は橋の下に沈んだということになっている。黄金、白金両長者の存在は事実らしく(南青山、白金台の各項参照)、娘が逢引きにくる途中、沢筋ではやむなく駕籠をおりて歩いたので姫下(ひめおり)坂の坂名が生じた、というのも地形上自然である。坂の位置は、確定しにくいが、笄川上流であることはまちがいあるまい。
【笄橋の由来―その三】 笄橋の橋名起原は歴史的には、麴町―国府路町説同様に国府へ向かう国府方橋の転化であるとする説が学問的に信を措けそうであるが、この点も笄橋が、笄川の渡河地点として往還であったことを意味するだろう。牛坂、大横丁坂の存在もその説を補強するが、この往還がその前後、どこへ通じていたかあまり明瞭ではない。ただ、後述の桜田新宿の設定が、それと関係があるだろうと推定される。
 笄橋には、さらに甲賀組・伊賀組の侍(さむらい)屋敷の存在で、甲賀伊賀がなまって笄となったとする。それがどの組屋敷をさすかも明瞭でなく、語音付会の説かもしれない。
 笄の文字は、鵠谷、鵠居、香貝等に書いたものもあるが、詩文等に用いるため〝こうがい〟の音に、佳字をあてているもののようである。しかしこのように多くの異字をあてる例は他にはあまりない。してみると笄の文字自体に何か不安定なものが感じられ、それゆえに伝説も種々考案されたものであろう。
 なお、橋下の川は笄川(現在暗渠)であるが、もとは竜川または親川といったという。だが、その理由を説明するものはない。
【集落の起源 近世以後の発展】 町域内の集落の起原は、現在の三丁目八番西半と六番南東角、一二番北部、一三番南部にあって三軒家と呼ばれたものがもっとも古い。地名が必要となった当時、三軒の家しかなかったからそう呼んだか、あるいは三軒の家ができて、その家をさしたものが地名になったのかとも考えられる。いずれにしても、近世以前の農業集落とみてさしつかえないであろう。寛文八年(一六六八)はじめて家作改めがあり、正徳三年(一七一三)町奉行支配となったが、家作改めはやはり新地奉行管轄で、享保四年(一七一九)町奉行改めとなり、同十六年(一七三一)には、願いによって家作改めが免除された。なお、飛地としては、四丁目三番西辺の麻布桜田町飛地の続きに二ヵ所あった。いずれも元禄十二年(一六九九)に道路敷となった代地として受けたものである。
 ついでは、三丁目二・三・五番の東側と六番の北半に、寛永元年(一六二四)に町屋が移ってきて、当初、阿左布新宿と唱え町名を麻布桜田町とした。これは、桜田霞が関の百姓家であって、霞山稲荷への頼朝神領寄進の印(しるし)という桜にもとづく地名であったという。
 慶長七年(一六〇二)に幕府用地となり、虎ノ門外溜池端の坂下へ移った。元和元年(一六一五)再度用地となって坂上へ移り、さらに三たび武家屋敷地になって、田畑屋敷等を召し上げられ、駕籠訴えをして寛永元年(一六二四)に麻生の原のこの土地へ入った。農業集落起原であるため、幕末までこの地域には百姓町の俗称があった。
【阿左布新宿】 阿左布新宿というからには、往還集落とする意図があったと思われ、笄橋伝説にみる古代交通要地とする伝承に関係があったであろうが、近世にはその実は失せた。笄橋西方の牛坂も交通機関にちなむ坂名である。桜田町から笄橋へ向かう大横丁の坂は富士見坂ともいい、牛坂・笄橋続きの重要な道筋であった。阿左布新宿が南北道ぞいにできたため、この坂道が横丁と見なされたが単に派生的な横丁ではなかったため大横丁の名がついたと推定される。
【町域の拡大】 阿左布新宿、すなわち麻布桜田町は、寛永十一年(一六三四)代官支配となり、寛文十一年(一六七一)まで麻布持高を示す水帳のうちに書き加えられているが、村の年貢割当に不正があって勘定奉行に訴え出て吟味の上、往古引地なので、麻布村高の内ではなく別途年貢を勤めることが、同十二年に認められた。正徳三年(一七一三)に町奉行支配となっている。
 飛地は四丁目一五番の北部にあるものは高木家拝領地で小普請方手代の屋敷であったこともあるが、元禄二年(一六八九)名主が冥加金を出して所持した。
 四丁目三番の東部の飛地は、宝永元年(一七〇四)元地の町内が元禄十二年に道路敷となった代地で、三丁目一六番東北部の飛地は、名主十兵衛の預地で天和三年(一六八三)幕府用地となり伊賀衆へ渡された残りの三坪が、享保七年(一七二二)無年貢地として確認され、家作もないまま町内惣反別から除外されていた。
 町域で今ひとつの町は渋谷御掃除町で、二丁目二五番西端、二六番東南部にあった。芝増上寺の裏に拝領屋敷のあった秀忠霊廟の御掃除役が、宝永六年(一七〇九)に一部が幕府用地となって渋谷の高木主水正の上地跡の現地に代地を受けて移転してきたものであった。寺社奉行支配から町奉行支配になったのが延享二年(一七四五)であった。
 以上のほかは、寺社の門前町屋で、渋谷長谷寺門前(元和元年〔一六八一〕成立)、麻布観明院門前(寛永八年〔一六三一〕成立)、麻布妙善寺門前(寛永八年成立)で、いずれも延享二年(一七四五)に町奉行支配になった。
【寺社の開創】 寺社では大本山永平寺別院長谷寺(二丁目二一番)が慶長三年(一五九八)に十一面観音をもって開創した(この観音は戦災で焼失し昭和五十二年に再造された)。慈眼院(二丁目二四番)は長谷寺の塔司で、宝永六年(一七〇九)開創。慎徳寺(三丁目二一番)は慶長年間(一五九六~)開創、大名阿部家ゆかりの鬼子母神が有名で明治三年(一八七〇)に奥州棚倉に移転、同五年霊告で帰来して、昭和十七年(一九四二)に寺号を公称した。
 桜田神社(三丁目二番)は治承五年(一一八一)に東国平氏の一族である渋谷氏による勧請といわれ、付近町家の産土神として霞が関から溜池を経て、寛永元年(一六二四)現地へ移ったと推定される。
 これらの寺社は、いずれも近世になってこの地域に移転もしくは勧請されたもので、いずれにせよ江戸近郊の開発にともない創立・維持されたものとみられる。
 武家地は、幕末期に陸奥湯長谷内藤家の上屋敷のほかは、長瀞藩の中屋敷、白河・丹南藩など四藩の下屋敷と幕臣邸地があり、江戸市街でも辺地であった様子がみられ、麻布村、下渋谷村、青山原宿村、上渋谷村、上豊沢村などが主に笄川沿岸の低地に最後まで田地あるいは湿地として残っていた。
【明治以降の移り変わり】 明治維新後は、町屋、寺社地を除き、大名邸地はほとんど畑になったが、やがてそれも宅地となった。そして麻布の大邸宅地の延長となった様子がうかがえる。
 明治二年(一八六九)に長谷寺門前と渋谷御掃除町で笄町を、観明院門前と妙善寺門前は桜田町へ合併、三軒家町はそのままだったが、これらの町々に明治五年には武家地・寺社地がおのおの合併され、別にその一部分が新設の霞町に吸収された。さらに降って、その他の村地が合併されたのは麻布区が成立した以後の明治十九年、同二十四年などであった。
 笄川ぞいの北部には明治の後期から若干の商店と寄席があったが、発電所もあるような土地がらで、戦前はなお今日の郊外の景況に近く、戦災後も荒廃の感は免れなかったが、戦後の急速な発展はめざましく、六本木の外周の拡大とともに、その景況を一変した。