元赤坂一・二丁目

1444 ~ 1450 / 1465ページ
 北部と南部が高く、赤坂見付から二丁目一番の北方へかけて谷があり、二丁目一番中央には、自然の池が今日も残る。
【権田原の由来】 最初に記述されている住民は近世になって、西部の権田原の地名由来として説かれるもので諸説があり、『江戸志』によれば、「慶長十九年(一六一四)権田小三郎が死に家財を没収された土地だろう」としている。ほかに、旗本権田氏の居住地または権田氏の組屋敷跡説、権田市右衛門屋敷跡説、「権田左衛門国行の住居地というのは誤りで、代官権太隼人が住んでいたからで今も権太氏が住む」という説、権田丈之助の屋敷跡説などがある。慶長のころ権田小三郎がこのあたりの代官だったのはほぼ確かだが、丈之助は小三郎の子か、隼人が小三郎の父か不明である。さらに他の説では、「権田僧都何某と刻んだ古碑があって権田僧都墓原といったのを権田原と略したというのは、こじつけである」といったものもある。
 また、権田原坂の名もあるが、これは安珍坂と呼ばれることが多い。安珍坂とは享保年間(一七一六~三六)に、この坂付近の安藤佐兵衛邸から権大僧都某が暦応二年(一三四〇)に刻んだという碑が掘り出され、のちその上に祠(ほこら)を建て安珍大権現と名づけたのが、この坂の名の出自だともいう。
【赤坂の由来】 町域の大部分を占めた紀伊徳川家の中屋敷は、寛永九年(一六三二)の設定だが、この地は、茜を多く栽培して赤根山とよばれ、その登り口のため今の町域東北辺の紀伊国坂を赤坂といったという。他に赤坂の地名起原には松平安芸守下屋敷(現赤坂五丁目一~三番)が赤土だったからという説や、甚三という染物屋が赤い絹(もみ)を干すため付近の坂が一面赤く見えたためという説、単に赤土の坂があったからという説、元赤坂町の旧地千代田区永田町二丁目一八番先の赤坂という説などがある。
 紀州邸の上屋敷は今の千代田区紀尾井町にあったが、藩主はここと交互に住み、ことに文政六年(一八二三)に上屋敷が炎上してからは、藩主はこちらに定住した。現二丁目一番のほぼ全域に近かったが、文化八年(一八一一)と天保八年(一八三七)に現一丁目七番に面する所を元赤坂町から加え、また、赤坂七・八丁目に面するあたりの青山和泉守の屋敷や、北青山一丁目に面するあたりの三枝隠岐守の屋敷をも加え、維新後に皇室用地となったのちも、北端の四谷仲町一~三丁目、青山権田原町の各一部を加え、また、現赤坂四丁目一八番などを外したりしている。
【伝馬町】 紀州邸設定の三年後、寛永十二年(一六三五)ころ、現町域の西端に赤坂門(寛永十三年〔一六三六〕石垣枡形完成、十六年櫓門完成)や弁慶堀(寛永年中〔一六二四~四四〕弁慶小右衛門請負。弁慶小左衛門とも)が築造されたとき、土置場に使われた空地を、同十三年、南伝馬町(現中央区)の伝馬役三人が、家康入国以来の役馬を勤めた報賞に望みの土地として一括大縄地として支給された。翌十四年島原の乱にも働いて、同十五年に地割も終わって赤坂新伝馬町を称した。現元赤坂一丁目一番~三・四番北端、五・六番東部を占め、のち、南側の表伝馬町一・二丁目と、北側の裏伝馬町一~三丁目にわけられた。
【元赤坂】 元赤坂町の移転(既述)は、寛永十四年(一六三七)で、もと豊島郡赤坂庄下一木(ひとつぎ)村(赤坂庄の存在は傍証がない)といい、奥州街道に面し田畑百姓家があったもので、家康江戸入り後町奉行支配、元赤坂町を唱えて一八五間半の町地だったが赤坂見付用地となったための移動で現一丁目七番西辺と、二丁目一番東端へきた。赤坂のはじめての町屋で元を冠したといい、代地(前述紀州邸へ防火用地として二度囲いこまれた替地、現赤坂三丁目七・八・二一番)ともども古町として遇された。
【武家地】 二丁目二番と二丁目一番の二番に近いところには、近世初期から御先手組への一括給地や小身の旗本屋敷があり、そのなかで、二番のほぼ中央に権田原三軒家町が正保九年(一六四四)以来あった。二ノ丸小人の大石、太田、寺井ら三人が雉子橋門外(現千代田区)から替地を受けてきたもので、元禄九年(一六九六)三月、町屋敷を許された。町名は地主が三人のためである。
 付近は文字通り草深い土地で、ここに住む下級幕臣らは、登城日の朝、交互に長い竿で露を払い着衣をぬらさぬようにしたという。
 二丁目一番の南西部は、青山和泉守の屋敷、西部には中根大隅守の屋敷があったが、文化八年(一八一一)までには紀州邸内に囲いこまれ、南辺に青山下野守屋敷二ヵ所とその間に挟まれた玉窓寺境内が幕末まで残った。玉窓寺は青山下屋敷から天和二年(一六八二)に、この地へ移転してきたものであった。また、一丁目四番から南方へかけては延宝(一六七三~八一)ごろには、三枝隠岐守の屋敷だったが、元禄八年(一六九五)定火消(じょうひけし)役屋敷五組増設のとき弓組の組頭役屋敷となって、高さ三丈の火の見櫓を建て、幕末まで続いた。
 九郎九坂が一丁目三・四番間にあって、表伝馬町名主の先祖一ッ木村開拓者秋元頼母の四代目大庄屋の九郎九が付近に住んでいたためという。
 鮫河は、現新宿区陽光寺境内の鐙(あぶみ)が淵から流れ出て紀州邸を抜け一丁目一番へ流れるが、港区地域では赤坂川と呼ばれた。紀州邸内の桜が散りこむため桜川ともいわれたとする。溜池ばたを流れ葵坂で溜池に合し、また、愛宕下へ通って芝の海手や古川へもつながる。芝北部低地を沖積した川である。
 喰違見付は、弁慶堀北端の外堀上で、石垣が喰い違っているためであろう。紀伊国坂よりにあって、むじなの化け物ノッペラボーが出たという話は、小泉八雲によって文学化された。
【玉川稲荷】 弁慶堀ばた東端の玉川稲荷は、上水施工の玉川庄右衛門勧請で、神木が柳のため、この東の堀端を柳堤という説があるが、一方、二〇〇余年前玉川上水に流れてきた翁形の木像を引き揚げ、享保年間(一七一六~三六)に、小祠を建てたものともいわれる(明治二十一年〔一八八八〕氷川神社に遷座し、のちに四合稲荷に合祀した)。
 このほか里俗称に櫓下、風呂屋町、古着店、鱗店、児玉横丁、稲荷前、菖蒲谷などがあった。
【明治以降の移り変わり】 明治五年、武家地・寺社地に町名を及ぼして、赤坂表一・二丁目、同裏一・二丁目、青山権田原町、青山六軒町、元赤坂町となったが、この元赤坂町は現在の二丁目一番に当たるもと紀州邸、のちの離宮敷地で、幕末の元赤坂町は赤坂裏三丁目となっている。現一丁目一番あたりに上水道見張り清掃役の元赤坂町町人伊賀屋茂左衛門の拝借地があったのは、赤坂裏一丁目にはいり、その北方弁慶堀ばたの除地は土手だったが、やがて紀伊国坂から赤坂見付に通ずる道となった。二丁目二番の西端から西へ旧武家地に青山六軒町が新設されたが、これは近世の青山六軒町(現南青山一丁目内の二ヵ所、明治二年〔一八六九〕青山大和町に編入)とは位置、時期とも別で六道辻の里俗称からきたか、旧六軒町の移住かと思われる。
【赤坂離宮】 明治五年三月から離宮となった旧紀州邸は、六年五月旧江戸城の皇居が兵火に炎上して仮皇居となり十年には太政官も移って、同二十二年宮城の完成まで続いた。その直後、東宮御所となり三十一年現迎賓館造営に着手、四十一年日本人による洋風建築の最高峰として完成、大正三年(一九一四)東宮御所は高輪(現高松宮邸とその付近)に移り、赤坂離宮の称に復した。大正十三年東宮仮御所となり、その後また赤坂離宮を称した。ほかにこの敷地内に青山御所(二丁目一番西南)、表町御殿(現秩父宮邸あたり)、大宮御所、青山東御所などがあった。この間敷界はたびたび広がり、また、明治二十三年(一八九〇)青山通りが東西直通して南部は現赤坂四丁目一八番の部分が分かれた。
 一丁目は近世にはにぎやかだったが、維新後その裏通りはしだいに商家が減り、小住宅街化した。旧権田原中央の道は大正二年安珍坂からまっすぐつけ直され、南は御所敷地となり、北側に仮皇居時代の御会食所が大井町から移されて、大正七年(一九一八)四月に憲法記念館(現明治記念館主部)となった。
【弁慶橋】 弁慶橋の開設は、明治二十二年(一八八九)、その名は弁慶堀にちなむ(『赤坂区史』)とも、神田御王ヶ池東方藍染川下流で廃橋になった弁慶小左衛門作の名橋を移した(『麹町区史』)ともいう。擬宝珠は市内各廃橋のものともいう。
 豊川稲荷は、現赤坂四丁目一番の大岡邸内祠で明治二十年赤坂小学校の建設で火消役所邸跡に移った。稲荷とはいうが、豊川妙厳寺の飛境内地で仏閣である。
 明治四十四年(一九一一)市制町村制改正のとき赤坂表はただの表町に、赤坂裏は伝馬町に改称した。
 昭和二十二年(一九四七)港区創立で、元赤坂町以外の各町に赤坂の冠称を加えた。現二丁目は都心化現象とともに自動車会社などができ、見付の立体交差路と首都高速四号線が景観を変えたが、その後高度経済成長期にはいってさらにビル化が進んだ。
 離宮も国会の施設として国立国会図書館、オリンピック事務局などに使用されたが、昭和四十三年末改装に着手、和風建物などを加えて五年半後に総理府迎賓館となった。また、二丁目一番に東宮御所が同三十五年に完成、三笠宮邸も移ってきたが、ほかに宮内庁職員住宅、皇宮警察赤坂護衛署がある。二丁目二番の東京都神社庁は四十四年(一九六九)七月の法人登記で都内神社の連合体である。
 住居表示実施は四十一年(一九六六)七月一日で、現在の町域・町名となった。