港区の考古学研究史

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 明治十年(一八七七)九月、アメリカ人生物学者エドワード・シルベスター・モース(一八三八~一九二五)によって大森貝塚(東京都品川区・大田区)の発掘調査が行われた。わが国における近代科学に基づく考古学的発掘調査の嚆矢(こうし)である。その二〇年後、東京帝国大学理科大学(現在の東京大学理学部)教授として人類学講座を担当していた坪井正五郎(しょうごろう)(一八六三~一九一三)によって、芝丸山古墳および周辺の円墳群(以下、芝丸山古墳・円墳群、No.24・25)の発掘調査が行われた。明治三十年十二月から三十一年四月にかけてのことで、港区内で初めて行われた本格的な発掘調査であった。「第一章 港区の考古学研究史」では、その芝丸山古墳・円墳群の発掘調査を手掛けた坪井正五郎の登場から、行政を主体とする発掘調査が間断なく続いている現在までの考古学調査・研究の歩みをたどっている。
 第一節では、港区の考古学研究黎明期の様子を、わが国近代人類学・考古学・民族学の基礎を構築した坪井正五郎、鳥居龍蔵(りゅうぞう)(一八七〇~一九五三)と、坪井・鳥居の知遇を受け港区内の遺跡探索や芝丸山古墳・円墳群発掘調査に尽力した阿部正功(まさこと)(一八六〇~一九二五)の活動を中心に垣間見ている。
 第二節では、大正期から昭和四十年ごろまでの考古学調査・研究の推移を追っている。麻布霞町(現在の西麻布一・三丁目)の自邸を拠点として活躍した鳥居龍蔵は、大正五年(一九一六)に武蔵野会(現在の武蔵野文化協会)を発足し、『武蔵野及其周囲』(大正十三年刊)、『武蔵野及其有史以前』(大正十四年刊)、『上代の東京と其周囲』(昭和二年刊)を発表するなど、港区域を含む武蔵野の地域研究の発展に大きな足跡を残した。大正期から戦前にかけて、港区域で本格的な遺跡の発掘調査が行われることはなかったものの、坪井や鳥居などの先達を追った気鋭の研究者により、考古学調査・研究は間断なく続けられた。
 戦後は、とくに高度経済成長期に入るころから、遺跡保護や学術目的の調査・研究に加え、開発、土木工事や建築事業に伴う発掘調査が進められるようになる。この時期は、東京都教育委員会の依頼や委嘱による大学の研究室や研究者の調査が行われるとともに、形質人類学者による近世人骨の収集や調査が進展し、併せて近世遺跡への関心が芽生え始めた。
 こうした経緯を経て昭和五十三年七月、港区教育委員会は区内最初の本格的な行政調査(開発等に先立ち行政主導のもとに行われる遺跡発掘調査)である伊皿子貝塚遺跡発掘調査に着手、十月には港区文化財保護条例を制定(昭和五十四年四月一日全文施行)し、港区として区内の埋蔵文化財(地中や水中に埋蔵されている文化財を指す用語で、考古学で扱う遺構・遺物がこれに当たる。埋蔵文化財を包蔵する土地を埋蔵文化財包蔵地という)の保護行政に取り組むこととなった。第三節では、伊皿子貝塚遺跡発掘調査から今日に至る調査・研究の推移を確認し、現在、埋蔵文化財保護行政が抱えている課題について考えている。