『港区史』(一九六〇)や『新修港区史』の編さん時、港区内では明確な旧石器時代の遺跡や遺物は発見されていなかったが、昭和五十九年、麻布台一丁目に所在する郵政省飯倉分館構内遺跡(現在の出羽米沢藩上杉家・豊後臼杵藩稲葉家屋敷跡遺跡、No.32)で黒曜石製のナイフ形石器が一点出土した。この資料が遺跡発掘調査によって得られた旧石器時代の遺物として港区初出であったものの、関東ローム層中からの出土ではなかったために、これをもって直ちに港区内に旧石器時代の遺跡が残存しているとは認定し難かった。その二年後、白金館址遺跡(現在の旧白金御料地内武家屋敷跡遺跡、No.69)で、石器や礫群が埋没当時の様子を留めた状態で検出された。これにより、旧石器時代に港区域で人びとが活動していたことが明らかになった。さらに、平成十四年(二〇〇二)長門萩藩毛利家屋敷跡遺跡(No.9)で、姶良(あいら)火山灰を含むローム層(AT層)の下位で石器ブロックや礫群が発見された。港区の歴史の始まりが、二万九〇〇〇年前以前に遡ることが判明した瞬間であった。
「第二章 旧石器時代」は「第一節 旧石器時代の自然環境」「第二節 旧石器時代のくらし」「第三節 港区の旧石器時代遺跡」によって構成し、約三万年前から一万三〇〇〇年前のころまで港区内で展開した旧石器時代の生活や文化を、列島全体の旧石器時代史との関わりの中で考え、港区内で発見された旧石器時代遺跡を把握する。
また、第二章のコラムとして、炭素14年代測定法(放射性炭素年代測定法)について解説している。原始編で記される年代は、この測定法によって得られた値である。コラムにあるように、炭素14年代測定法にはベータ線計測法と加速器質量分析法(AMS法)の二種類があり、近年ではAMS法の測定結果を重視する傾向が高まっているようであるが、異論も少なくない。これらの測定値を比較すると、縄文時代早期と前期で一〇〇〇~一三〇〇年、中期で五〇〇~七〇〇年、後期で二〇〇~五〇〇年、晩期では一〇〇~二五〇年ほどの違いが現れ、AMS法が値はより古くなる。この通史編原始では最新の研究成果を取り入れつつも、従来の計測値に注意を払い、また執筆者の見解を尊重したことで、やや幅をもたせた記載となっている場合もある。ただし、いずれにしてもこの値は理化学的な年代であり、真の暦年ではないことに留意する必要がある。原始の歴史を考える際の目安であることを断っておきたい。