縄文時代は、土器を使い、狩猟・採集・漁労を主な生業としながら様々な自然資源を利用し、本格的な定住生活が進んだ時代で、一万年以上続いた。その開始の時期は、土器の出現あるいは普及、高い定住性による居住形態や貝塚に代表される縄文的生業形態の確立といった具合に、何を基準とするかで異なる。たとえば、土器の出現をもって縄文時代の開始とすると、現在のところ青森県大平山元Ⅰ遺跡で出土した、表面に文様がつけられていない無文土器を最古とし、それは約一万六五〇〇年前とされる。豆粒のような粘土粒が貼り付けられた豆粒文(とうりゅうもん)土器も出現期の土器である。次いで、口縁部にミミズ腫れ状の文様を付けた隆起線文系土器やC字状の文様が口縁部に連続して付けられる爪形(つめがた)文系土器、土器表面に縄文を施した多縄文土器群、表裏面に縄文が付けられた表裏縄文土器群が使われた時代を経て、縄を転がして文様を付ける技法が確立し、よく知られている縄文土器がつくられるようになる。考古学では、こうした土器の型式に基づき、縄文時代を草創期・早期・前期・中期・後期・晩期の六期に区分しているが、これまで港区内では草創期の遺構や遺物は発見されていない。なお、旧石器時代から縄文時代へ移行する時期については、第三章にコラムを設けて解説してあるので参照願いたい。また、港区内出土土器の変遷は、『港区史』資料編(二〇二三)に詳述するので御覧いただきたい。
港区では、早期前半に当たる約一万年前から縄文時代の人びとの活動が始まると考えられるが、この時期の資料や情報はきわめて少ない。次の前期は列島全体で人口が増加し、くらしが安定していく時代で、港区域でも人びとの活動は活発となる。住居跡こそ二軒(ただし、一軒は住居跡と考えられる竪穴遺構)に留まっているが、土器の出土状況から港区内の各所で集落が営まれていたことが想定され、貝塚もつくられるようになる。古くから知られている本村町貝塚(No.51)は、この時期に形成された貝塚である。中期以降も、人びとは港区域で様々な活動を行っていた。伊皿子貝塚遺跡の周辺海域では漁が行われ、赤坂台地では集落が形成されていた。現在の芝公園にある丸山貝塚(No.23)は、中期後葉には形成が始まっていた可能性が考えられている。後期の住居跡は、伊皿子貝塚遺跡で検出された称名寺式期の敷石住居跡一軒のみであるが、貝塚は伊皿子貝塚・西久保八幡貝塚(No.18)が知られ、引き続き人びとの活動は活発であった。ただし、いずれの貝塚についても、貝塚をつくった人びとのすまいは未だにわかっていない。晩期になると遺跡数は減少し、半ば以降の資料はほとんどみられなくなる。
「第三章 縄文時代」の「第二節 縄文時代のくらしと文化」では、港区域の縄文時代の歴史が、先の六期区分にとらわれずに各期の特徴に注目して綴られている。第一項では港区域で人びとが活動を始めた早期の様子を概観し、第二項で集落の形成が進んだ前期から中期の港区域を解説する。第三項では貝塚を取り上げる。前項と多少重複するが、ここでは前期から後期にかけての港区域の姿を、貝塚を伴う遺跡から探っている。最終項では、資料数が激減する晩期の様子を垣間見る。