縄文時代の開始時期に関わる問題同様、弥生時代の始まり、すなわち縄文時代の終わりについても盛んに議論が行われている。従来、弥生時代は稲作を背景に成立した弥生式土器が使われた時代と定義され、本格的な水田稲作農耕と金属器使用の始まりを重要な文化要素とし、その始まりは紀元前五~同四世紀と考えられてきた。しかし、国立歴史民俗博物館により、わが国の水田稲作が約三〇〇〇年前(紀元前一〇世紀ごろ)まで遡ることが発表されて以来、弥生時代開始期の問題はもとより、弥生時代・文化そのものを見直す作業が進められている。今ここで、その詳細について述べることはしないが、水田稲作農耕が弥生時代・文化を考えるうえでもっとも重要なキーワードであることは間違いない。水田稲作農耕は、北部九州地方に伝播後、北海道と沖縄を除く各地に広がり、港区を含む南関東には、約二一〇〇年前ごろに伝来したと考えられている。つまり、北部九州地方と南関東では、弥生時代の開始期は、従来の考え方に立てば三〇〇年程度、国立歴史民俗博物館の年代観に従えば九〇〇年ほどの隔たりがあるのである。ところで弥生時代は、主として土器の変化に基づき前期・中期・後期に大まかに区分されている。ただし、最近では早期を設定することも行われているが、いずれにしてもこうした時期区分に従えば、港区域には中期の中ごろに弥生文化が伝わってきたと記述される。
港区域に最初にやってきた弥生時代の人びとは、現在の芝公園で出土したと伝えられている壺形土器から、芝の台地に墓をつくったと考えられているが明確ではない。やがて高輪台地の北半に集落が営まれるようになり、海浜を臨む緩やかな斜面に方形周溝墓が構築された。墓をつくった人びとは、台地の西側に広がる古川によって開析された谷間で水田稲作を行っていたのかもしれない。また、青山台地でも同じ時期の人びとが活動していた可能性がある。後期に入ると、前半では遺跡が減少するが、後半には人びとが港区域の各所で集落を営むようになり、高輪台地や飯倉台地周辺で、比較的規模の大きな集落が形成されていたことが明らかになってきている。
「第四章 弥生時代」の叙述は、旧石器時代や縄文時代と同様に、人びとの活動の舞台となったこの時代の港区域の姿をはじめに考え(「第一節 弥生時代の自然環境)」、次いで人びとのくらしや社会、文化の移り変わりを追っている(「第二節 弥生時代のくらしと社会」)。最終節で、港区内で発見された弥生時代遺跡を確認する(「第三節 港区の弥生時代遺跡」)。