土地の改変と原始・古代の遺跡

24 ~ 24 / 323ページ
 港区の原始・古代について考古学的調査・研究の成果から考えようとするとき、発掘調査例や資料の少なさ、遺跡の残存状態の悪さなど、いくつかの壁が存在する。その要因は、江戸時代以来、未だに止むことのない都市開発や建設・土木事業に伴う土地の改変である。
 一六世紀末葉から一七世紀前葉にかけて、最初の大規模な都市開発が港区の北東域を中心に進められた。一七世紀後半になると開発の波は西端や南西域の一部を除く、港区のほぼ全域に広がったが、江戸時代の都市開発や屋敷普請は、事業地の大半の土地で大幅な地形改変を招いた。切土や盛土など、地形改変が複数回に及んでいる場合もあり、そうした折、原始・古代の堆積土や遺跡が削られ消滅した。一度削り取った原始・古代の堆積土で盛土を行っている例もみられる。また、江戸時代にはローム層を掘り込んで様々な施設がつくられているが、こうした折に原始・古代の遺跡が壊されることが多く、施設を埋め戻した際に使われた土壌に原始・古代の遺物が紛れ込んでいることもあろう。出羽米沢藩上杉家・豊後臼杵藩稲葉家屋敷跡遺跡出土のナイフ形石器は、この種の遺物の典型である。開発事業等は、近代以降もアジア・太平洋戦争時を除き間断なく進められ、これにより港区内では多くの原始・古代の遺跡が消失した。   (髙山 優)