坪井正五郎(しょうごろう)と鳥居龍蔵(りゅうぞう)(通称名。本名は「りょうぞう」)は子弟関係にあり、日本が近代国家として形作られていく中で、日本の人類学・民族学・考古学の創成期を牽引した研究者であった。坪井は現在の港区虎ノ門に居住し、港区内の遺跡調査を行っている。鳥居もまた現在の港区西麻布に居を構え、港区域を含む武蔵野の歴史文化等の研究を推進した。ともに港区の考古学研究史上、欠くことのできない存在である。
坪井は文久三年(一八六三)、江戸両国(現在の中央区日本橋浜町一丁目)に福井藩医の子として生まれ、明治十四年(一八八一)に東京帝国大学理科大学に入学、動物学を専攻した。在学中に同志とともに「じんるいがくのとも」という団体を結成し、同十九年に機関誌の発刊を機に改称して「東京人類学会」とした(昭和十六年〈一九四一〉に日本人類学会と改称)。同年七月に理科大学を卒業、九月に大学院に進学し、さらに独学で本格的に人類学・考古学の研究を進めていく。
坪井は、日本の先住民について、アイヌの伝承に登場するコロボックルに注目し、日本石器時代人=コロボックル説を唱え、日本人の祖先をアイヌとする白井光太郎(みつたろう)(植物病理学)や小金井良精(よしきよ)(解剖学)らと明治二十年以降に論争を繰り広げた。同二十一年九月に理科大学助手、翌二十二年に人類学研究のためイギリス等に留学している。同二十五年に帰国するとすぐに理科大学教授に任命され、翌年九月に人類学講座の初代教授となり、調査・研究に専念し、日本人類学研究の中心的な役割を果たしていく。このころに坪井は、芝公園内に点在する塚を踏査して古墳であると推定し、その保存を東京府に提出する。また、同二十八年の日本考古学会の成立にも大いに貢献し、翌二十九年十月には三十三歳の若さで人類学会会長に就任している。
同三十年、東京府知事から改めて、前述の塚の調査を委嘱された坪井は、翌年春の発掘調査で古墳であることを明らかにし、同三十二年調査報告書とともに「東京市芝公園内古墳保存意見」を東京府に提出する。同年、長年の研究業績により大学から理学博士の称号を授与された。
大正二年(一九一三)五月、坪井は第五回万国学士院連合大会出席のために滞在していたロシアの帝都ペテルブルクで病に倒れ、五十歳で客死する。坪井は日本人類学の発展に尽力し、普及させるという大きな功績を残した学者であり、優れた教育者でもあった。