鳥居は、明治三年四月四日に現在の徳島市東船場町で誕生した。十六歳の若さで東京人類学会に入会しており、後に坪井正五郎の勧めで二十歳で上京し、坪井が帰国すると東京帝国大学理科大学人類学教室標本整理係となる。その後、東京人類学会の派遣員として中国遼東半島の調査に赴いた。同二十九年夏には台湾の人類学調査で初めて写真機を用い、後の飛騨白川村では、蓄音機で里謡(りよう)等の音声を採録している。同三十一年に理科大学助手となり、翌年には北千島のアイヌ調査を行い北海道アイヌとの生活の違いを確認する。同三十五・三十六年には中国西南部で少数民族の調査を実施した。後に、日本民族の起源についてインドシナ民族への重要性に気づいていく。大正五年に芝公園で埴輪頭部が発見され、これを調査した後、同年に東京市公園係の井下清(いのしたきよし)らとともに「武蔵野会」(現在の武蔵野文化協会)を発足させ、事務局を西麻布の自宅に置き、同七年に雑誌『武蔵野』を刊行する。
大正十年、大学に提出した論文「満蒙の有史以前」が高い評価を受け、文学博士の学位を授与され、翌年助教授となり、人類学教室第二代主任を務めた。同十三年に大学への提出学位論文の審査をめぐり辞職し、直ちに鳥居人類学研究所を創設して調査研究を続けた。昭和八年には、『武蔵野』に「麻布の有史以前と原始時代」を執筆している。同十四年に北京の燕京大学の招聘で客座教授を務め、内モンゴル等の遼代遺跡の調査研究を続けた。同二十六年七月に退職し、年末に帰国するも貧困を極めていたため、時の総理大臣吉田茂の配慮で再び港区内の旧宅に近い建設相公邸の一角に落ち着き、同二十八年正月に八十二歳で他界する。
鳥居は、我が国における人類学・民族学・考古学の調査研究において、日本をはじめ広く極東から東アジア地域を対象に野外調査を実施した先駆者で、とくに海外では過酷な状況の下、多くの困難に立ち向かい、探検とも言える調査を展開している。日本人の起源や調査対象地での少数民族の歴史や生活風俗などについて調査研究を進め、人類の歴史や生活習慣を探求することに邁進(まいしん)した学者であった。 (岡崎完樹)