正功が精力的に考古学・人類学の調査・研究に携わったのは、明治二十年代から三十年代前半にかけてで、年齢でいうと二十代後半から四十代前半のもっとも溌溂(はつらつ)としていたころであった。
当時の港区内での発掘調査活動について、たとえば明治二十五年に絞ってみても、青山共葬墓地(現在の青山霊園)・梅窓院(ばいそういん)(南青山)(一月十九日・三十一日)、青山五丁目長者ヶ丸(一月三十一日・三月二十二日・十二月九日)、青山立山墓地周辺(三月二十三日)、芝公園紅葉館内(十一月七日)と七回に及び、発掘を伴わない調査を加えると回数はさらに増えるに違いない。他に、都下はもとより、千葉県や埼玉県等にも足を運んでいる。
明治二十九年には、考古学会の設立に合わせて入会し、二円を寄付、翌年は自邸内で発見した遺構(古穴)を発掘した。
明治三十一年三月六日、東京帝国大学人類学教室員八木奘三郎(そうざぶろう)から届いた書状を機に、芝丸山古墳・円墳群の発掘調査に関わるようになる。調査の開始当初、正功は一見物人あるいは支援者のような立場であったが、調査の実務を担当していた野中完一(かんいち)からの申し出により調査を牽引するようになった。正功は綿密な調査記録『芝円山古墳調査略記』を残したが、本資料は芝丸山古墳・円墳群の詳細を知るきわめて数少ない記録として重要である。
明治三十三年、麻布霞町の所有地内で再び遺構(土窟)調査を行った正功であったが、三〇年代の後半になると考古学・人類学の学会活動や調査活動から遠ざかっていき、大正十四年(一九二五)九月十一日、六十五歳で鬼籍に入った。
正功が収集した遺物は、昭和十一年(一九三六)、孫の阿部正友によって京都帝国大学・学習院・東京文理科大学(それぞれ現在の京都大学・学習院大学・筑波大学)に寄贈された。今日、京都大学総合博物館で一三点の遺物を見ることができる。 (髙山 優)