考古学調査・研究の緩やかな進展

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 港区内では、大正に入っても本格的に遺跡の発掘調査はなされず、この傾向は昭和戦前期にも変わることはなかった。もっとも、この時代に考古学調査・研究が行われなかったわけではない。鳥居は、大正七年(一九一八)に芝公園内の古墳で発見された埴輪について、雑誌『武蔵野』に執筆している。八号墳付近から偶然発見された二つの人物埴輪の頭部完形品の髪型を分析し、女性であると結論付けている。
 大正八年四月には「史蹟名勝天然紀念物保存法」が公布され、東京府はこれと前後して史跡の所在調査等を行っており、三月に『東京史蹟写真帖』を刊行している。これには、明治中ごろから存在が知られていた丸山貝塚(芝公園内)も掲載されている。藤枝隆太郎(当時、武相研究会会員)が伊皿子貝塚を踏査したのは、大正十三・十四年のことである。下って昭和十六年(一九四一)三月には『麻布区史』が刊行されたが、『日本石器時代遺物発見地名表』(第五版)と鳥居の「麻布の有史以前と原史時代」(『武蔵野』二〇-五)を引用してまとめたものである。