麻布区笄(こうがい)町(現在の西麻布四丁目)に生まれた谷川磐雄(いわお)(後に大場磐雄、國學院大學教授。一八九九~一九七五)は、大正五年に中学生で東京人類学会に入会し活動を始めた。その後、近隣に住む鳥居龍蔵の指導を受けつつ、港区内の遺跡から周辺地域の遺跡調査へと活動範囲を広げていった。
大場は、長年の調査を基に、大正末年に執筆した縄文時代前期後半の「諸磯(もろいそ)式土器の研究」の中で、「青山墓地内貝塚」について触れ、古川支流丘陵の西南斜面に位置し、貝の散布が少ないことを述べている。その後、昭和二年には「西久保八幡神社内貝塚」の情報を得て現地を確認し、出土資料(土器等)を見ている。
昭和十二年、江坂輝彌(てるや)(後に慶應義塾大学教授。一九一九~二〇一五)は、麻布区本村町一四四外地内(現在の南麻布三丁目)の本村町貝塚の存在情報を得て、発掘調査している。遺跡は、古川の左岸の麻布台の南斜面地から台地上に位置し、宅地造成による石積み擁壁等で破壊が進んでおり、斜面地の雑木や篠竹の繁茂する狭い場所での貝層調査であり、貝塚の本体ではなかったことが報告されている。出土品は、自然遺物のハマグリ・アサリ・ハイガイ・サルボウガイ等の鹹水(かんすい)(海水)産が主体であり、現在に比べて海面が高かった縄文時代前期(約六〇〇〇年前)の本貝塚付近の様子を知ることができる資料となった。
土器は文様などから五つに分類し、縄文時代前期の中ごろから後半に属する黒浜式土器と諸磯a・b式土器について説明しているが、概報のため簡略な報告であった。 (岡崎完樹)