昭和三十年(一九五五)十月十二日、港区西久保巴町(現在の虎ノ門三丁目)の建築現場から人骨が発見された。この折、現地に赴き、出土人骨の収集等に当たった人類学者が河越逸行(としゆき)(一九〇三~一九七七)である。河越は、明治三十六年(一九〇三)十月に京橋で生まれた。日本歯科医学専門学校(現在の日本歯科大学)を大正十四年(一九二五)に卒業した後、河越歯科医院を開業して歯科医として治療に当たる傍ら、昭和三十一年には東京慈恵会医科大学で解剖学を修め、翌年には江戸時代人頭蓋骨の人類学的研究で博士号を取得した。昭和三十八年に警視庁科学検査所法医科(現在の警視庁科学捜査研究所)の嘱託となっている。昭和五十二年に死去した。
さて、河越が出土人骨の調査に本格的に着手したのは、昭和二十九年ごろからとみられる。港区内に関していえば、冒頭に記した西久保巴町での立会いが最初で、その後、少なくとも同四十年までに四六回立会い、調査を行った。同四十六年に芝西應寺(さいおうじ)で行った結城松平家墓所調査は、河越が行った調査の中で、被葬者および構築年代が明らかな大名墓の調査として特筆に値する。
河越の調査は、単に人骨の収集と分析に留まるものではなかった。墓塔・埋葬施設を図や写真等により記録し、副葬品等の共伴(きょうはん)遺物や出土層位にまで着眼している。こうした河越の地道な活動は、今日の近世考古学研究の展開を考えたとき高く評価できる。