調査は、東京都教育委員会の指導により、港区教育委員会が組織した任意団体である「港区伊皿子貝塚遺跡調査会」が行った。調査会は港区教育長を会長とし、東京都教育委員会文化財関係者・調査団長、公社事業関係者が参画した。
調査の実務は、慶應義塾大学教授清水潤三(港区文化財保護審議会の初代会長)を団長とする同遺跡調査団が担い、また、早稲田大学講師金子浩昌(ひろまさ)(一九三一~)と慶應義塾大学助教授鈴木公雄(きみお)が参与として加わったが、実質的な調査の指揮と指導は鈴木が行い、調査主任藤村東男(はるお)(慶應義塾女子高等学校教諭。一九四六~)が補佐した。加えて、調査団には慶應義塾大学・明治大学などの多くの考古学専攻生が参加した。
伊皿子貝塚遺跡は、三田四丁目に所在し、高輪台地の低位緩斜面上に位置する。調査は昭和五十三年七月から一年半近く行われ、引き続き報告書作成作業に同等の期間を費やした。その調査成果は、本文編と図版編で九〇〇頁余りの報告書として刊行されている。
貝塚は、約三五〇平方メートルの範囲に及び、縄文時代後期の前半(約四〇〇〇年前)に形成された。出土した貝殻の分析結果によると、全体の八割を占めるハイガイとマガキの採取時期は、ハイガイが三~四月、マガキは初冬から真冬ごろとする。また、これらの貝の生息域は泥質(でいしつ)の海底で、形体の計測値からやや小ぶりであることも明らかにしている。採取の単位も当時の大型の深鉢土器(約一三リットル)を想定し、容積を推定している。さらに、動物骨や土器等の人工品が少ないことから、集落外に形成された貝塚であるとし、複数の集団が季節ごとに集まって採取し、廃棄されたと報告している。
他に、縄文時代後期初頭(約四二〇〇年前)の竪穴住居跡一棟、弥生時代中期(紀元前二世紀ごろ)の方形周溝墓二基、古墳時代(六世紀ごろ)や平安時代(九世紀ごろ)の竪穴住居跡が四軒発見された。さらに近世の陶磁器類も出土するなど、時代が重複した遺跡であった。 (岡崎完樹)