近世遺跡調査の始まり

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 伊皿子貝塚遺跡の発掘調査が行われたころ、近世以降の遺構や遺物は通常は調査の対象外で、伊皿子貝塚遺跡で近世陶磁器やガラス製品等を報告の対象としたのは稀有(けう)な例であった。
 昭和五十七年(一九八二)、東京都教育委員会と港区教育委員会は、国指定名勝「旧芝離宮庭園」(遺跡名称は旧芝離宮庭園遺跡、No.21)内の橋脚設置を機に、事前の発掘調査を実施した。港区内で初めての、文化財保護法に基づく本格的な近世遺跡の発掘調査である。この折、団長として調査を牽引したのが、港区文化財保護審議会初代会長を務めた清水潤三であった。さらに同じ年の十一月、三田済海寺で越後長岡藩主牧野家墓所遺跡(No.55)の発掘調査が行われ、旧郵政省飯倉分館構内遺跡(現在の出羽米沢藩上杉家・豊後臼杵藩稲葉家屋敷跡遺跡)、芝神谷町町屋跡遺跡(後に芝神谷町町屋跡第1遺跡、No.16-1)と近世遺跡の発掘調査が続いた。その後、昭和五十九年から六十年にかけて港区役所行政棟・議会棟の建築工事に先立ち行われた増上寺子院(しいん)群(光学院・貞松院(ていしょういん)跡、No.22-1)・同(源興院跡、No.22-2)の発掘調査等を通じて、港区では近世遺跡の本格的な調査・研究に取り組むこととなったのである。
 この僅か五年足らずの間に、近世遺跡の取り扱い方が大きく変わったので少し触れておきたい。
 旧芝離宮庭園は昭和五十四年に国の名勝指定を受け、庭園の基になった小田原藩邸跡地は近世の埋蔵文化財包蔵地(遺跡)として周知されていた。つまり、ここで工事等を行う場合は、第一に指定文化財の現状変更の許可を取る必要があり、第二に事前の発掘調査が義務付けられていた。これに対し、当初、埋蔵文化財包蔵地(遺跡)認定がなされていなかった出羽米沢藩上杉家・豊後臼杵藩稲葉家屋敷跡、芝神谷町町屋跡は、文化財保護法に基づく事前調査を行う必要は必ずしもなかった。しかしながら、旧芝離宮庭園遺跡の発掘調査を通じて、近世遺跡の考古学的調査・研究の必要性を考え始めていた港区では、遺跡の有無を確認し、遺跡が発見された場合は、文化財保護法に基づく所定の手続きを行うとともに、遺跡の取り扱い方を事業者や土地所有者と協議することとした。ここに、近世遺跡を取り扱う基本的な流れが確立されたのである。
 この近世遺跡調査の開始期に、様々な面で調査の指導に尽力した考古学研究者が、鈴木公雄であった。鈴木は、越後長岡藩主牧野家墓所遺跡をはじめとする、港区内の近世遺跡の発掘調査などを通じて、今日の近世考古学の進展に大きく貢献した。
 ところで、越後長岡藩主牧野家墓所遺跡の発掘調査には、形質人類学の加藤征、近世史学の吉原健一郎(成城大学名誉教授・港区文化財保護審議会委員。一九三八~二〇一二)が参画し、それぞれの分野に関わる調査を担った。越後長岡藩主牧野家墓所遺跡発掘調査により、近世墓・墓所跡遺跡発掘調査には、考古学をはじめ様々な分野の研究者が関わる必要性があらためて確認された。