近世遺跡調査の変化

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 近世遺跡の発掘調査に変化の兆しが見え始めたのは、昭和六十三年度から平成元年度のころであった。港区内で大規模な開発事業が計画され、五〇〇〇平方メートルを超す規模の発掘調査が行われるようになった。その典型が、旧汐留貨物駅跡で発見された汐留遺跡(播磨龍野藩脇坂家屋敷跡・陸奥仙台藩伊達家屋敷跡・陸奥会津藩保科家屋敷跡遺跡〈No.98〉およびNo.118遺跡の総称)の発掘調査である。
 当時、港区内の発掘調査は伊皿子貝塚遺跡以来、調査ごとに組織された任意団体によって行われていた。しかし、任意団体で大規模な発掘調査に臨むことは様々な困難を伴うとの判断から、そのころ、多摩地域の発掘調査を専らとしていた現在の公益財団法人東京都スポーツ文化事業団東京都埋蔵文化財センター(以下、東京都埋蔵文化財センター)に調査を委託する道筋をつけた。その最初の調査が、汐留遺跡の発掘調査である。