第一項 環境の変化と人びとのくらし

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 縄文時代の開始期、つまり旧石器時代の終末期をどこに求めるか、その考え方については様々な見解があるが、本章のコラムで解説されているように、約一万六五〇〇年前が一つの目安となる。このころはまだ最終氷期で冷涼な気候に覆われ、港区の眼前の海域は陸であった。その後、港区域で人びとの活動が始まった約一万年前になるとだいぶ温暖化が進行し、海水面は直近でもっとも下降した約二万年前に比べると一〇〇メートル近く上昇した。しかし、それでも港区域の東方は陸地が続いていたが、その後、二〇〇〇年強の間に海水面は現在とほぼ同じ高さまで上昇し、さらに縄文時代早期末から前期前葉にかけて縄文海進の最盛期を迎えた。約七〇〇〇~六〇〇〇年前と考えられる時期で、遠くは栃木県南部まで海水が入り込んでいたことからも、港区域の河川に海水が浸入していたことは容易に推測できる。この時期、港区域では現在の浜松町から新橋、虎ノ門にかけて、後に日比谷入江と呼ばれるようになる内湾が形成される。四五〇〇年ほど前になると、再び冷涼化が本格化し、海水面の低下が進む。縄文時代後期に海水面はやや上昇するが、約三〇〇〇~二五〇〇年前の晩期以降、海水面は低下し、いわゆる「弥生の小海退」の時期を迎える。
 こうした環境変化の過程で、港区域の眼の前には豊かな海洋環境が形成された。そこは様々な海洋資源の供給地となり、港区域で活動した縄文時代の人びとは必要に応じて資源を選択しながら、あるいは計画的に利用した。新たな資源を見出し、確保することもあっただろう。たとえば、後期の西久保八幡貝塚遺跡(No.18)では、新旧の貝層で出土する貝の種類が異なることが確認される。時期の古い貝層に多いハイガイが新しい時期の貝層では激減し、シジミ類が増加する。ハイガイはもともと暖かい海に生育する種類であり、より冷涼化が進んだ時期に上位の貝層をつくった人びとにとって、ハイガイは馴染みの薄い貝となっていた。代わりに、シジミ類を新たな食料資源としたことが考えられる。山野の資源についても同様であったに違いない。伊皿子(いさらご)貝塚遺跡(No.60)では、クリやササ類など周辺に生育していた植物資源を家屋の建築材としていたことが、出土遺物や土壌に含まれる花粉化石の分析から想定される。   (髙山 優)