前期の住居跡は、古川の北に位置する飯倉台地上にある近江山上藩稲垣家屋敷跡遺跡(No.133)で一軒検出されている。この遺跡は、南東足下の我善坊谷に向かって、やや緩やかに下る斜面上に立地する。台地上部は江戸時代の屋敷造成の折にローム層まで削られ、中世以前の遺構・遺物はこの時にほとんど消失したとみられるが、台地上の多少たわんだ所に縄文時代の竪穴住居跡や包含層が残存していた。
竪穴住居跡は台地の縁に近い位置で検出された、ただし、台地は中世以前、東方に多少延びていた可能性が高く、古い時代に自然崩落したか、江戸時代の屋敷造成の際に削り取られたのであろう。住居跡は、平面形が直径三メートルほどの円形で、検出された壁の高さは五〇センチであった。炉が中央付近に設けられていたが焼土は少なく、炉床に熱による硬化は認められない。床面が概して軟らかいことと併せ、長期間使われた形跡は認め難い。出土遺物は土器片のみで石器は含まれておらず、土器も破片資料ばかりであった。この住居跡は、前期前半の黒浜式期に当たる。
近江山上藩稲垣家屋敷跡遺跡に隣り合う陸奥八戸藩南部家屋敷跡下層遺跡(No.99)でも、前期の遺物が出土している。遺構は検出されていないが、前期前半から後半にかけての多量の土器が出土しており、型式編年に沿って出土土器を列挙すると、関山(せきやま)式・黒浜式・諸磯(もろいそ)a~c式・浮島式と、前期初期および末葉の土器を除く一連の時期の土器が連続する。近江山上藩稲垣家屋敷跡遺跡同様、形状や法量が明瞭な資料はみられないが、陸奥八戸藩南部家屋敷跡下層遺跡該当地にこの時期の住居などが存在した可能性は高い。石器は、削器と考えられる打製石器一点を得たのみである。
同じ台地上に立地する二遺跡は、黒浜式期はひと続きの集落であった。その前後については判然としないが、出土遺物が極端に少ないことから、集落が時期を越えて営まれることはなかったのかもしれない。