竪穴住居跡は、遺跡中央からやや北によった位置で検出された。上部が削平されており壁の高さは不明であるが、柱穴などの付随する施設から、南北六・九メートル、東西六・五メートルの円形であったと推測されている。炉は住居のほぼ中央に設けられ、炉の中央には口縁部と胴部下半を欠く深鉢形土器が埋設されている。炉の周辺と住居の縁辺に、二四基の柱穴が穿たれている(図3-2-2-2)。遺物は土器五七点のみであったが、確実にこの住居跡に伴う土器はいずれも中期後半の加曾利(かそり)E3式土器で、住居が加曾利E3式期に使われていたことが確認された(同図)。
長門萩藩毛利家屋敷跡遺跡は、北に延びる比較的面積の広い舌状台地上に立地し、水場も近く縄文時代の人びとの居住に適した環境であったと考えられる。遺物の出土量や遺構の検出状況は、中期と次の後期を中心に、この台地上で断続的に集落が営まれていたことを示唆する。
長門萩藩毛利家屋敷跡遺跡をはじめとして、中期後半の加曾利E式期の遺構・遺物は発見例が多く、加曾利E3式期に営まれたものであるが、港区域内での加曾利E式土器の出土分布状況をみると、港区域の各所に集落が営まれていた可能性はある。
図3-2-2-2 長門萩藩毛利家屋敷跡遺跡の住居跡(上)と出土遺物(下)
東京都埋蔵文化財センター編『港区萩藩毛利家屋敷跡遺跡 第2分冊』(東京都埋蔵文化財センター調査報告第162集、2005)から転載