本村町貝塚は戦前から知られていた貝塚で、古川に面する南向き斜面に立地する。
昭和十一年(一九三六)に最初の発掘調査が行われた。その報告によれば、調査地で検出された貝層の厚みは二〇~三〇センチで、斜面の下方に向かうにつれ厚みが減ずることが確認されている。一方、調査地の隣地で、もっとも厚い箇所で五〇センチに達する貝層が確認されており、貝塚は台地縁辺の斜面に形成されたとみられている。貝は一七種類確認され、二枚貝ではハマグリ・サルボウ・オキシジミ・シオフキ・ハイガイが、巻貝ではアカニシ・ツメタガイが比較的多くみられるという。獣骨は含まれず、魚骨も僅かで、種は不明であると報告されている。土器は前期後半の諸磯式土器を主体とし、前期半ばの黒浜式土器が若干含まれるとある。
本村町貝塚ではその後、平成二十一年(二〇〇九)と同二十九年にも確認調査が行われ、平成二十一年の調査ではアカガイ製貝輪・ハマグリ製貝刃が出土した。土器は両度の調査で相当数が出土したが、その内容は昭和十一年調査時と大きく変わらない。
さて、これまでの調査で貝塚本体の位置を確認することはできていない。平成二十一年と同二十九年に行われた二度の確認調査および近隣の調査により、本村町貝塚はほぼ壊滅状態であると判断された。
ところで、昭和六十二年に昭和十一年調査地の西方五メートルほどの地点で、住居跡と考えられる竪穴状遺構が発見されている。僅か六〇平方メートルの範囲から、一・三×一・六メートルほどの竪穴状遺構一基が検出され、二〇〇〇点ほどの土器片と一五点の石器・剥片(はくへん)(石器を製作した際に発生する削りかすなど)が出土した。土器は小片が多いものの、前期前半から後期までの資料群で、とくに後期後半は諸磯式土器が圧倒的に多い。
これらの調査により、本村町貝塚が集落内あるいは集落に接して形成された、諸磯式期のサト(ムラ)貝塚であることが概ね明らかとなった。