さて、貝塚は後期前半の堀之内式期に形成された。約四〇〇〇年前のことであるが、貝塚の形成に先んじて、後期初頭の称名寺式期に、すでに住まいを営んだ人びとがいた。
住居跡は、上部や南西側が攪乱(かくらん)されており、全体の規模や形状を明確にすることはできなかったが、平面は長径六・八メートル、短径五・八メートルと推定される主体部に、張り出し部が連結する柄鏡(えかがみ)形になると考えられる。ただし、張り出し部は不明である。床面には円礫をめぐらせ(縁石)、主体部の北東に同様の円礫を用いて間仕切りが施されている。間仕切りの南西側の空間には砂が二~三センチの厚さで敷かれていた一方、間仕切りの北東側では砂がまったくみられず、住居内を二つの空間に分けて使用していたことが確認された。炉は、間仕切りの西側の空間のほぼ中央に設けられていた。出土遺物は少なく、口縁部を欠く小型深鉢形土器一点、土器片錘一点、用途不明の礫器一点、スタンプのような形状をした石器一点で、土器は称名寺Ⅱ式である。また、この住居跡床面の全面から炭化物が検出された。分析結果から、これらの炭化物は、家屋の骨組みなどに用いられた構築材、屋根葺きあるいは壁に用いられたと考えられる草本(そうほん)類などで、家屋構築材にはクリ・カヤ・ヤマグワが使われ、屋根葺き用または壁材はアズマネザサであることが確認された。このような住居跡を焼失家屋と呼ぶが、被災によるものか、意図的に焼き放ったものかは判断できない。
この住居跡の周囲に、他に住居が構築されていたか否かは定かではない。しかし、同じ時期の遺物がまったくと言ってよいほど見られなかったことや、この時期の集落の在り方から、一軒家だったかもしれない。
貝塚は、この住居跡が放棄された後に形成された。このころの遺跡地には草地と疎林(そりん)(まばらに樹木の茂る林)が形成されていたらしい。土壌に含まれる花粉化石の分析により、ヤナギ属やハンノキ属が現れ、こうした樹木が増加傾向にあることが観察されている。クリ属は、前・中期の遺物を含むより古い時期の層から継続して安定的な出現をみせている。クリは縄文時代を通して重要な植物資源であった。青森県三内丸山遺跡などの調査により、クリを管理していた可能性が指摘されているが、遺跡地周辺にはクリをはじめ、カヤやヤマグワといった生活に有用な樹木が生育していた。
図3-2-3-2 伊皿子貝塚遺跡検出の称名寺式期の敷石住居跡
港区伊皿子貝塚遺跡調査団編『伊皿子貝塚遺跡』(1981)から一部改変のうえ、転載
伊皿子貝塚は海産の貝を主体とする貝塚で、立地から斜面貝塚に分類される。近代以降に壊されており、残存部分は三五一平方メートルほどであったが、本来は倍近くあったと推定される。貝層はいくつもの貝殻の山が積み重なって形成されており、もっとも厚い箇所で一・八メートルに及ぶ。
貝層を構成する貝は、巻貝六七種・二枚貝一五種の八二種であったが、食用や他の用途に供された貝はハイガイとマガキなど一〇種程度である。他にアサリ・ハマグリ・バカガイなどがあり、食材という点からみた場合は現代と大きく違わない。貝以外の動物遺体はきわめて少ない。魚ではクロダイ・ウナギなど二〇種、ほ乳類ではイノシシ・タヌキなど八種、他にカニ類・ヘビなどであるが、もちろんすべてが食材などに利用されたわけではない。
伊皿子貝塚の貝層の特徴は、ハイガイを主体とする層とほとんどマガキで占められている層が互い違いに重なり合っていることであろう。貝の成長線の分析により、伊皿子貝塚を形成した人びとは晩春から初夏にハイガイを採集していたと推定された。一方、マガキは晩秋から真冬に捕獲していたと考えられ、それぞれを適期に集中して得ていたものとみられる。ハイガイとマガキの捕獲量が減少する時期は、アカニシその他の貝で代用していたのかもしれない。
動物遺体以外の遺物は少ない。貝塚形成期の土器は主に貝層直下や直上から出土しているが、出土数は僅少で、貝層中からはほとんど出土していない。石器・石製品も少なく、石鏃(せきぞく)、垂飾(すいしょく)品、打製石斧(せきふ)、礫器、軽石製浮子(うき)の計九点を得たのみである。貝・骨角製品の大半は貝層中からの出土であるが、決して多量とは言えない。イタボガキ・アカニシを素材とした貝輪の完成品・未成品、ハマグリ製の貝刃とヘラ状貝製品があり、殻頂に穿孔(せんこう)がみられるハマグリやエイの尾棘(びきょく)製刺突具は漁具であろう。
伊皿子貝塚は、丸山貝塚と同様、貝の加工処理に関連したハマ貝塚といえる。
図3-2-3-3 伊皿子貝塚の貝層