第四項 縄文時代の人びとの行方

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 縄文時代後期の人びとが、港区域でどのようなくらしを営み、どのような活動を繰り広げていたか、その詳細は決して明瞭ではない。伊皿子貝塚や西久保八幡貝塚を残した人びとの居住地は、今のところ確認されていないのである。伊皿子貝塚を形成した人びとは、港区域外に集落を営んでいた可能性があるが、サト(ムラ)貝塚の特徴をもつ西久保八幡貝塚の場合は、近隣に居住地があっても不思議ではない。しかし、近くの遺跡で同じ時期の土器は出土するものの住居跡等の遺構は検出されていない。それでも、遺跡の分布状況や遺物の出土状況をみると、後期半ばごろまでは、港区域での人びとの活動は比較的活発だったことが推測される。ところが、後期後半を過ぎると、港区域での活動は急速に衰微に向かう。遺跡数の激減がこのことを物語っているが、単に近世以降の地形改変で後晩期の遺跡が失われただけとは考えられず、その背景を少し考えてみよう。
 縄文時代中期後半ごろに始まった気候の寒冷化は後期を経て晩期にも継続し、これによって引き起こされた様々な環境変化が人びとの生活や活動に影響を及ぼした。中期半ばごろまでの社会や文化が、後晩期に大きく変容していったことが指摘されている。
 寒冷化は、まず海面低下を引き起こし、海水域・陸水域の環境を変えていった。たとえば日比谷公園内の地質調査では、縄文海進により形成された海域環境が、中期後半の約四八〇〇年前を過ぎると淡水の流入により変化し、後期後半以降は浅海化と汽水化(きすいか)がいっそう進行したことが確認されている。同様の変化は、古川をはじめとする港区域の河川流域や沿岸でも起こったであろう。こうした水域環境の変化は、冷涼な気候と相まって、人びとが捕獲や採取の対象とする動植物相に少なからず変化をもたらした。西久保八幡貝塚で確認された貝種の変化には、このような背景が存在すると考えられる。
 また、中期後半から晩期にかけて盆地や平野では森林が成立していたとの指摘がある。一般的に中期の末葉を過ぎるころから集落の規模が縮小されるといわれ、たとえば称名寺式期の遺跡では、検出される竪穴住居跡が一棟のみの場合もあるというが、伊皿子貝塚遺跡で検出された同じ時期の竪穴住居跡はまさに一棟で、周囲に住居が存在した形跡が見受けられない。居住地周辺の環境が、集落の形成に与える影響は小さくない。
 後期後半以降、港区内の遺跡数はさらに減少する。そうした中、伊皿子貝塚遺跡では、晩期前葉から中葉の一連の土器(姥山(うばやま)Ⅲ式、安行3c式・安行3d式・大洞(おおほら)C1式・大洞C2式)が出土した。とくに安行3d式土器は出土量も豊富で充実しているが、遺構は検出されていない。
 晩期末葉の資料はさらに少なく、縄文時代の終焉を考える素材に乏しい。