弥生時代は、大陸から渡来した水田稲作農耕が定着し、金属器の使用が始まり、階級社会が形成された時代で、その始原は、従来の見解では紀元前五世紀と考えられている。ただ、紀元前四世紀とする意見に加え、近年ではAMS炭素14年代測定法により、遅くとも北部九州地方では紀元前一〇世紀まで遡るとする見解も提出され、縄文時代開始期の問題同様、議論白熱の様相を呈している。終末については、三世紀で概ね落ち着きつつあるといえる。ここでは、原則として従来の紀元前五世紀から紀元三世紀の年代観を用いることとしたい。
弥生時代はこの間、土器の変化や大陸から将来された文物(ぶんぶつ)との年代比較などにより、大きく前期・中期・後期に分けられ、前期が紀元前五世紀から同二世紀、中期が紀元前二世紀から紀元一世紀、後期が紀元一世紀から同三世紀に概ね対比される。さらに各期は、前葉・中葉・後葉などと細分されることが一般的である。なお、AMS炭素14年代測定法により得られた暦年代を基準としている国立歴史民俗博物館は、前期を紀元前七八〇~同三五〇年、中期を紀元前三五〇~紀元八〇年、後期を紀元八〇~同二四〇年とし、前期に先立ち早期(紀元前九五〇~同七八〇年)を設定する。ただし、いずれの場合もこれらの暦年代は、縄文時代のそれと同じように確定したものはなく、弥生時代を考える際の目安としておいていただきたい。
弥生文化を構成する主たる要素の一つに水田稲作農耕があることは、既述のとおりである。したがって、稲作が近代まで行えなかった北海道と、水田稲作農耕を受容しなかった琉球列島に弥生文化は到達していない。両者には、弥生時代に対応する時代区分として、続縄文時代(北海道)、貝塚時代(琉球列島、その中期中葉~後期前半)が設定されている。
関東地方では近年、水田稲作農耕が前期末葉には伝えられた可能性も考えられているが、北九州地方が弥生時代に入ったころは、狩猟・採集を主たる生業としていた人びとがくらし続けていた。港区域には、中期中葉のころに弥生文化が到達したと考えられている。