第一項 弥生文化到来のころ

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 港区域には、弥生時代中期中ごろに弥生文化が到来した。
 芝公園で出土したと伝えられる、この時期の一点の壺形土器(図4-2-1-1)を、明治大学博物館(千代田区駿河台)が所蔵している。採集された時期・出土地点・出土状況などは不明であるが、須和田式土器と呼ばれ、港区でもっとも古い弥生時代の土器である。
 残存状態は良好で、口径八・〇センチ、器高三一・六センチ、底径六・八センチ、胴部のもっとも膨らんだ部分の径が二四・九センチで、底部には径三・八センチほどの孔が開けられている。頸部に三条、肩部に一条、胴中央からやや下がった位置に一条の沈線(ちんせん)が一周し、頸部と胴下半は無文になる。肩部と胴中央の間には、二条から四条の沈線による菱形の区画文と刺突文で構成される二段の文様帯がみられる。
 既述のように、この資料については出土状況や共伴(きょうはん)遺物の有無等が不明であるが、他の遺跡の類例から壺棺再葬墓(つぼかんさいそうぼ)に使われていた可能性が考えられる。
 再葬とは、遺体や遺骨を複数回処理し、再び埋葬する葬法とされる。沖縄地方の伝統的な葬法である洗骨葬は典型で、現在一般的な火葬を再葬の一類型とみる向きもある。主に壺を棺とする再葬は、弥生時代前期から中期中葉にかけて中部地方や関東地方で盛んに行われ、たとえば、古くから知られる天神前遺跡(千葉県佐倉市)では七基の墓坑から二〇個体の土器が出土している。うち壺形土器が一七個体、甕形(かめがた)土器が三個体で、九個体が人骨を伴っていたことが報告されている。また、女方(おざかた)遺跡(茨城県筑西市)や出流原(いずるはら)遺跡(栃木県佐野市)のように数十基がまとまって検出された壺棺再葬墓遺跡もある。天神前遺跡の壺棺再葬墓に用いられた土器は、ほとんどが伝芝公園出土壺形土器と同じ時期の須和田式土器であった。両者に多少の相違があるとすれば、天神前遺跡出土土器の中に明らかな底部穿孔(せんこう)土器が見当たらないことかもしれない。
 

図4-2-1-1 伝芝公園出土の弥生土器
原図:下島綾美氏