むらの展開

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 港区を含む南関東では中期後葉になると、水田稲作農耕が本格化する。港区域では、高輪台地・麻布台地でこの時期の遺物包蔵地が発見されている。集落跡と考えられるが、明らかに居住地であったことを示す遺構が確認されていないことから、断定は避けておきたい。また、青山墓地でも中期中葉の壺形土器が出土したことが報告されている(図4-2-2-1)。昭和三十五年(一九六〇)刊行の『港区史』に写真が収載された資料で、口縁部を欠いているように見えるが、残存状態は良好と思われる。青山墓地では今も弥生土器の散布が確認できる(港区No.2遺跡)。遺跡地図では、墓地南半域中央の長径二二〇メートル、短径一〇〇メートルの長楕円形の範囲が遺跡として周知されているが、実際には散布地は周知範囲外に広がっている可能性がある。港区No.2遺跡は南に迫り出す舌状(ぜつじょう)台地に立地し、東西には谷が入り込んでいることから、弥生時代の人びとが生活するのに適した環境であっただろう。
 

図4-2-2-1 青山墓地出土の中期後葉の壺形土器


 
 高輪台地では、亀塚公園、三田台公園から伊皿子(いさらご)交差点付近にかけて、中期後葉の遺物の散布あるいは包蔵地の広がりが認められる。住居跡こそ発見されていないが、この時期に集落が営まれていた可能性は高いと考えられる。
 後期前半、港区域では遺跡数が激減する。関東地方南西部で同様の傾向がみられることが確認されており、港区域でも久ヶ原(くがはら)式土器の出土量は減少する。もっとも、久ヶ原式土器と同じ時期の武蔵西部に分布の中心をもつ朝光寺原(ちょうこうじばら)式土器が稀に出土することから、地域間交流など人びとの活動はあったと考えられるが、その痕跡はきわめて希薄である。
 弥生文化が伝わった中期中葉から、本格的な水田農耕が始まったとみられる中期後葉を経て、後期前半に至るまでの港区域のむらの様子やくらし振りは、残念ながら明瞭ではない。
 後期後半に入ると、遺跡数が増加に転じるなど状況は一変する。高輪台地・飯倉台地・麻布台地で集落跡が発見されている。
 高輪台地の北半に位置する亀塚公園遺跡(No.56)や近接する三田台町遺跡(No.75)では、人びとの活動が弥生時代終末期を経て古墳時代まで続いたとみられることが確認されている。高輪台地では、信濃飯山藩本多家屋敷跡遺跡(No.64)で一〇軒を越える後期の竪穴建物跡が検出されており、この時期の大集落である可能性が出ているが、発掘調査の途上であり、その成果が期待される。また、高輪台地で発見されているこれらの集落は、住居群を濠(ほり)で囲む環濠集落の可能性がある。
 赤坂台地・麻布台地では、長門長府藩毛利家屋敷跡遺跡(No.129)や石見津和野藩亀井家屋敷跡遺跡(No.156)などで土器が出土しているが、遺構は検出されていない。飯倉台地では、我善坊谷(がぜんぼうだに)周辺の台地上で、後期中葉から古墳時代初頭にかけての集落跡が台地上に数珠(じゅず)繋ぎ状に並んで発見されており、長期にわたって居住地となっていたことを知ることができる(図4-2-2-2)。また陸奥八戸藩南部家屋敷跡下層遺跡(No.99)では、弥生時代後期後半あるいは古墳時代初頭の溝が検出されており、環濠がつくられていた可能性が考えられている。ここでは、我善坊谷の南方で発見された雁木坂上(がんぎざかうえ)遺跡(No.74)から、弥生時代のむらとくらしの一端をみておこう。
 

図4-2-2-2 飯倉台地の弥生時代遺跡
国土地理院陰影起伏図・標準地図をもとに作成